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2011年6月4日、午前5時起床。
さっとシャワーを浴びた僕は、午前6時、愛車のキーを片手に家を出ました。
どういうわけか、車の運転が好きで、それも長時間の運転が大好きです。
今までの最高は東京から鹿児島まで。
えっ、「若い時なら何でもないよ!」って?
そうですね。
しかし、僕が鹿児島まで行ったのは52歳の時でした(笑)

目黒通り沿いにある僕の家から、東名・用賀インターまでは、この時間なら15分ほどです。
途中、朝食を摂ったりしながら、東名・名神をゆっくり走り、大阪、難波の予約していたホテルに着いたのは午後2時でした。

  
午後3時、仕事がある山本以外の入江、大石がホテルに迎えに来てくれました。
3人で、6月にしてはやたらと暑い、南の繁華街を歩き、喫茶店を見つけて入りました。
あまりの暑さに、夜まで待ちきれずビールです。
その後、会場へ着いたのは、開始時間の1時間近く前だったでしょうか。
仕事場から直接会場入りしていた山本とも合流です。

幹事のみんなはリハーサルをしていたようで、我々21期生が一番乗りでした。
何とも、はた迷惑な先輩ですね。

333通ものメールのやり取りをした。後輩・岩鶴君とも初対面です。

その後は、皆さんも知っての通りです。

1次会、
 
2次会、
 
そのまま3次会と・・・。
 
結局、ホテルに帰り着いたのは午前3時近かったでしょうか。

シャワーを浴びた僕は、色々な事があった1日を振り返り、なかなか寝付けません。
「あ~、面倒だ」
午前5時に、ホテルを出た僕は、そのまま車を運転し東京を目指しました。
家に帰り着いたのは、お昼の12時。
おそらく、みんなはその頃、ぐっすりだったのではないでしょうか?(笑)
やっぱり、元気なおっさんでした。

終身名誉幹事長の岩鶴君からもらった、たった1通のメールから始まった僕の“4度目の青春”は、こうして今も続いています。

えっ、岩鶴君とのメールですか?
もちろん今でも、ガンガンやり取りしていますよ。
この2年で1000通を超えました(笑)

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山縣様

長期に亘る連載、お疲れさまでした。
そして、ありがとうございました!

ほんとうはもっと書いていただきたいこと、書きたいと思っていらっしゃることもあったろうと推察しますが、それはまた別の機会に(笑)

これから私どものOB会はどんな風に展開していくのでしょうか…
いずれにしてもOB会が誰かの心の支えになるようなことがあれば幸いです。

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2011年3月2日の、5学年下の岩鶴君から来た一通のメールから、何かが動き出しました。

 “フォークソングクラブOB会”開催に意欲を燃やす岩鶴君に感化されたわけではありませんが、僕の心にも火がつきました。

「確か、ノートがあったぞ」・・・

ベランダに設置してあるちっぽけな・・・、“100人乗っても壊れない”、そんな大きなものじゃない物置には、本やビデオを詰め込んだ段ボール箱が山積みになっています。
ある休日、春先にも拘らず大汗をかきながら、段ボール箱を一つ一つ開けて、ついに発見しました。
45年前に付けていた“JUNKMEN”の記録ノートを!



「そうか、そうか、こうだったんだ」
「ああ、こうやってクラブは出来たんだ」
「おお、22期生はこの4人かあ・・・」
「ずいぶん23期生が入って来たんだなあ・・・」
「ええっ、クラブが出来て一ヶ月もしないうちに52名の部員が・・・」

など等、その当時の出来事に驚くやら、懐かしいやら。

早速、その資料の内容を岩鶴君にメールしました。

ノートには出来事だけではなく、当時の写真も張り付けてありました。

4人だけの練習風景、


新校舎での初めての文化祭、


生野高校との交流会・・・
 
懐かしい写真です。

初めてメールをもらってから、3ヶ月と2日。
6月4日(土)がいよいよ近づいてきました。
OB会前日の6月3日までに僕と岩鶴君の間で交わされたメールの数はなんと“333通”!!!

恋人同士じゃあるまいし(笑)


(続く)



 テレビの世界に限りませんが、芸能界の制作部門にいる人間にとっては、電話・メールに“即返事する”というのが、非常に重要な事です。
 番組やイベントで、メインとなるタレントさんをキャスティングする場合、一歩遅れる事によって、他局や他番組に取られてしまう事はよくある事です。そのため、掛かってきた電話や、メールに対してはすぐ返事をする習慣が身についています。

 面識のない5学年下の“岩鶴君”から頂いたメールに関して、当日すぐ返信したのは言うまでもありません。“フォークソングクラブ”という懐かしい響きもありましたが、習性として「すぐ返信しなければ」という思いにもかられました。
 岩鶴君からのメールによれば、「21期の消息は何一つ掴めていない」という事でしたが、「えっ、そうなんだ。後の3人は大阪に居るのに」「ほんの半年前、去年(2010年)の9月に大阪で、そして10月には東京(詳しくは、僕の両親がいる千葉県の柏)で4人で呑んだぞ」などと考えながら、返信しました。

 そして、まだ会った事のない後輩とのメールのやり取りが始まりました。
 それも、毎日と言っていいほど。

「入江、大石、山本にもすぐ連絡を取るから・・・」

 その後、岩鶴君と入江も連絡が取れ、4月9日・阿倍野で21期の3人とOB会の日程を決める会合がありました。4人での打ち合わせ中、入江から僕に電話があり、6月4日(土)開催が決定したのです。

4度目の青春がいよいよ動き出しました。


(続く)



全てはこの1通のメールから始まりました。

2011年3月2日 午前3時05分、会社のHPにこんな書き込みがありました。


『突然のメール、なにとぞご容赦ください。私は岩鶴恒義と申します。(中略)
私は昭和49年に大阪府立勝山高等学校というところを卒業しました。
在学中はフォークソングクラブに在籍していたのですが、(中略)
今年、ほぼ28年ぶりにOB会を実施すべく準備をしています。
が、なにぶん最後に開催したのが28年も前で、もうすでにOBの消息も杳として知れず、現在「OB会開催準備委員会」を作ってOBの消息を一件ずつ尋ねている最中です。
さて、つきましては、私のクラブの先輩である21期生に、山縣慎司様というかたがいらっしゃいました。
山縣様は私より5年先輩で、私が直接ご謦咳に接することはなかったと思うのですが、たまたま御社のサイトに同姓同名の「山縣慎司」様のお名前を拝見し、おそらく当クラブのOBでいらっしゃるのだろうと推察した次第でございます。
そこで、誠に不躾なのですが、この「山縣様」が「勝山高校21期卒業生の山縣慎司様」でしたら、OB会開催の準備のために、なにとぞ当方にご連絡くださるようにご伝言をお願い申し上げたいのです。(中略)ちなみに21期の先輩は全く消息がつかめておりません。
突然、このようなメールをお送りして申し訳ございません。
またおそらく様々にお手を煩わせることになろうかとも存じますが、何卒事情ご賢察くだされば幸甚です。末筆ながら御社のますますのご発展をお祈り申し上げます。』


会社のHP班からこのメールが僕に転送されてきたのは、同日、午前8時過ぎのことでした。

(続く)



 逆境の中始まった『ひょうきん族』ですが、徐々に世の中に浸透し始め、コンスタントに20%近い視聴率を獲るまでになりました。
 しかし、レギュラーセットで収録されるコーナーは“ひょうきんベストテン”他2,3しかなく、”タケちゃんマン”をはじめとするほとんどのコーナーは、毎回違うセットでした。
と、いう事は美術費がいっぱいかかるという事です。
 番組開始後1年、『ひょうきん族』は1億円の赤字を出しました。
 1年50週とすれば、1回の放送につき200万円の赤字を計上した事になります。
 流石に、「これはいかん」となり、5人のディレクターで善後策を考えました。
 番組の視聴率は良いので、番組終了となる事は200%ありえませんでしたが、何かしら殊勝な態度を見せる方が良いだろうと、5人で辞表を編成局長に提出する事にしました。もちろん、100%シャレです。
 当時の編成局長は、現在の日枝会長です。
 我々5人は週明けにでも、シャレで局長の所へ行く計画を立てていました。ところが、計画を立てたその週の放送で、なんと30%近い数字を獲り、王者『全員集合』を視聴率で破ったのです。
 編成部は、即赤字をチャラにしてくれたばかりではなく、製作費を大幅にアップしてくれました。
 シャレで辞表を出す事もなく、製作費もアップした事で、我々は自由に番組制作を続ける事が出来ました。その後も、たびたび『全員集合』を視聴率で破る事があり、ついにTBSは『全員集合』を終わらせ、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』という新番組を始めました。

 因果は巡る・・・。『全員集合』を終わらせた『ひょうきん族』は、番組開始後8年目に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』によって、最後を迎える事になりました。
 
 生放送で行われた最終回の打ち上げ終了後、出演者と我々5人は2次会の為、六本木に繰り出しました。そして2次会の会場に姿を見せてくれたのが・・・、番組のテーマ曲を歌ってくれていた、松任谷由実さんです。
 そして、ディレクター一人一人をハグしてくれました。
 耳元で囁いてくれた「神のご加護がありますように」という一言は今でも忘れられません。

『オレたちひょうきん族』は、間違いなく僕の3度目の青春でした。


 たった一ヶ月の準備期間で始まった『オレたちひょうきん族』です。

 10月に入り、ナイター中継は無くなったとはいえ、裏番組は相変わらず『全員集合』というお化け番組です。
 常に視聴率40%をたたき出す怪物の裏番組としてスタートした新番組でしたが、どういうわけか徐々に世間に認知されるようになりました。
 と、同時に5人のディレクターが注目を浴びるようになりました。
 女子中学生、女子高校生の追っかけが出現し、どうにもおかしな話になってきました。

 レコード会社から「歌を出さないか?」、出版社から「本を出さないか?」など、色々な話が舞い込むようになりました。
 結局、ポニー・キャニオンから『ひょうきんパラダイス』でデビュー、更に講談社から『それ行け!六本木』という本まで出版する事になりました。
 ラジオのニッポン放送では『歌謡パレードニッポン』という午後帯の4時間生放送の番組キャスター、自局のドラマ『サザエさんSP』(実写版・星野知子さん主演)にゲスト出演など、本来の仕事とは全く違う事に駆り出されました。
 殆どの新聞・雑誌の取材も受けました。
 
 レコードデビューにあたっては、新人歌手の聖地である、池袋・サンシャインビルの噴水広場で新曲発表会、出版に当たっては紀伊國屋書店でサイン会と、もう何が何だか分からない日々を過ごしました。
 
 毎週行われる社内の会議とは別に、月に一度、ディレクター5人だけで六本木で会議を開いていたのですが、番組の人気が出るにしたがって、おちおち六本木の街を歩けないようにもなってしまいました。
 食事の後、5人でディスコ(今でいうクラブ?)に繰り出すのが恒例でしたが、気がつけば、女の子が30人も付いて来ている事がありました。
 30人分ものお金は誰が払っていたんだろう?
 誰も払った記憶がありません。(笑)

「う~ん、人気タレントってこういう気持ちなんだ。そりゃ、一度やったら辞められないわな」

 と実感した次第です』


(続く)
 



1981年5月16日、特番としての『オレたちひょうきん族』第1回の放送日です。
視聴率は9.5%。
今までのドラマを大きく上回る視聴率でした。

その後8月末まで、ナイター中継がない土曜日に不定期に放送された回数は8回。
最終的に16~17%の視聴率を獲ったような覚えがあります。

気を良くした編成部は、「よし、10月からレギュラー」という無茶なオファーを出してきました。

たった1ヶ月の準備期間で、10月からレギュラー番組となった『オレたちひょうきん族』は、その後8年に亘って放送されました。

どういうわけか、お笑い陣だけではなく各方面の方々に愛され、多くの著名人に御出演いただきました。

松任谷由実 YMO サザンオールスターズ 高中正義 オフコース
ラッツ&スター C-C-B チェッカーズ 上田正樹 島倉千代子
今井美樹 武田鉄矢 EPO
石坂浩二 竹中直人 竹下景子 浅野ゆう子 黒木瞳 沢口靖子 関口宏
樋口可南子 石原真理子 蟹江敬三 宮崎美子 大信田礼子 松居一代
丹波哲郎・・・
(敬称略)


その他、スタジオに遊びに来てそのまま出演した方々を入れるととんでもない数になります。
もちろん、みなさん喜んでコントに挑戦して下さいました。
 
YMOやオフコースのコントなどは、2度と見る事は出来ないでしょう。

(続く) 



 「視聴率5%を獲ってくれれば良い」と言われて始めた番組は、瞬く間に人気番組となり、放送開始1ヶ月後の11月3日には、10.3%という驚くべき数字をたたき出しました。

  
 80年10月から始めた番組が、コンスタントに数字を獲ったからでしょうか、我々5人に、翌81年5月から、野球中継のない土曜夜の8時~9時の1時間、バラエティー番組を作れと新しい指令が来ました。

  
 当時の土曜日の夜は、必ずどこかの局がナイター中継をしており、またTBSはドリフターズの『全員集合』を放送していた関係で、裏番組は壊滅状態でした。

  
 土曜の夜8時、我が局で何が放送されていたか覚えていますか?
 局内に居る僕でさえ、確かな記憶がありません。
 前年の秋から『ピーマン白書』、81年春からは『小さな追跡者』というドラマが放送されていました。
 がしかし、ともに2%台という低視聴率のため、残念ながらどなたの記憶にもないはずです。

  
 そこで、我々5人のディレクターに「好きに作って良い」という事になりました。
 “何でも良い。好きにやれ。これ以上視聴率が下がる事はない”。
 こんなにも楽な番組作りはありません。

  
 そこで、我々5人は、『笑ってる場合ですよ』の出演者で、好き勝手なバラエティー番組を作りました。
 裏番組の『全員集合』が、計算しつくされた番組だったので、我々は全く逆の何が起こるか分からない、ハプニングも、アドリブもそのまま放送する、当時としては画期的な新しい番組を作りました。


 それが『オレたちひょうきん族』です。


(続く)



 新宿駅東口前に、“アルタ”というビルが出来たのは、この年1980年の春でした。

 僕が勤めていたテレビ局は、このビルの7階にあるスタジオアルタを使って、3月から『日本全国昼休み』という生番組の放送を開始しましたが、1~2%という低視聴率のため、秋から新番組を放送する事になったのです。

 そこで、5人のディレクターが集められ、新番組の制作にあたる事になりました。
 何度も会議、打ち合わせを繰り返し、作り上げた番組が『笑ってる場合ですよ』という番組でした。

 当時、僕が勤めていた局は、TBS・日本テレビ・テレビ朝日に視聴率で大きく水をあけられ、“振り向けば12チャンネル(現・テレビ東京)”と言われていました。
 そこで編成部は「5%の視聴率を獲ってくれれば良い」と、僕たちはさほど重要視されてもいませんでした。
 そこで、我々はこれから人気が出てくるかな?と思われる若手のお笑い芸人をメインにした番組を作ったのです。

月~金の司会者に、B&B。
日替わりレギュラーに
月曜日 ザ・ぼんち
火曜日 ツービート
水曜日 紳助・竜介
木曜日 春風亭小朝
金曜日 のりお・よしおという布陣でした。

「何だ、人気者ばっかりじゃないか。これからの若手じゃないだろ!」と、思われるかもしれませんが、今から33年前の話です。
 一番年上のビートたけしさんでさえ、まだ33歳でした。

番組開始は、1980年(昭和55年)10月1日。



 日本の大学は良くしたもので、真面目に授業を受けなくても、何とか4年で卒業させてくれるものです。
 友達と遊び、芝居ばかりやっていた4年間、必須科目の授業も友達や後輩に出席カードを出して貰ったりしていたので、心理学など一度も出ていない授業もありました。
 しかし、試験とレポート提出で何とか単位はくれました。

 演劇の道に進もうとしていた僕は、“俳優座”や“劇団四季”を目指していましたが、前者には千田是也、後者には浅利慶太という大巨匠の演出家がおり、芝居の演出をさせてもらうまでには、一体何十年かかるのだろうと、二の足を踏んでしまいました。

 結局、舞台の芝居をあきらめ、某テレビ局に就職しました。
 当初、そこで担当させられたのは『スター千一夜』や『ズバリ当てましょう!』という番組のAD(アシスタント・ディレクター)でした。
 今でこそ、“テレビ60年”とか言われ、近代的な職業になっていますが、
僕が入った頃はまだ20数年しか経っていなかったので、土建屋的な職場でした。
 先輩に怒られる、殴られる、灰皿が飛んでくるなどは当たり前の世界だったので、辞めていく人間も沢山いました。制作現場に居る限り、ディレクターにならない事には人間扱いされません。

 1980年、転機が訪れます。
 すでに、『スター千一夜』などでディレクターになっていましたが、低迷していたお昼の時間帯に、新しい帯番組を始めるという事で、ディレクターの一人に選ばれました。


(続く・・・)



HN:
26期部長岩鶴
HP:
性別:
男性
職業:
幹事
趣味:
OB会開催
自己紹介:
大阪府立,勝山,高校,フォーク,ソング,部,クラブ,OB,会,同窓会
[01/19 武藤 昇]
[10/27 福山隆司]
[06/17 山縣慎司]
[06/02 伊福部 茂]
[04/15 伊福部 茂]
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[10/28 澤田 幸子]
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