【前回までのあらすじ】
中学の担任の口車に乗せられた「学年成績3番」の「私」は、偏差値が急降下中の大阪府立勝山高等学校に入学する。
心臓疾患の持病があった「私」は、中学までやっていたサッカーおよびサッカー部入部をあきらめて、プロミュージシャンへの道を歩もうとする「中2病患者」でもあった。
地学教室に入るとドアに一番近いところでウッドベースを弾いている人がいました。
首の付け根くらいまでの長髪で、うっすらとヒゲを生やしています。
挨拶をするとギロリと横目で私を睨むだけで、ろくに挨拶も返さないのです。
高校での1年間の違いはとても大きく、先輩はみな「大人」に見えたものですね。
あとでわかることですが、ベースを弾いていたのは3年のO塚さんでした。
O塚さんとは、これも不思議な縁で、私の卒業後、一緒にバンドをやることになります。O塚さんがろくに挨拶も返さなかったのは単にシャイだったということがのちにわかりましたww
どんなやり取りが交わされたのかは忘れましたが、その後対応してくれた2年の先輩と話して、すぐ入部することになりました。
確か、活動日は月水金の放課後ではなかったかと思います。あれ? 火木だったかな? いや、月火木金だったような・・・・。こんなことも忘れています。
そしてギターはその都度家に持って帰るようにと・・・。
これは自宅で練習をするためです。
私は「あの満員の臨時市バス」で毎日ギターケースを持って往還することを思い、うんざりしました。
が、プロミュージシャンになるためです。がまんしなければ。
学校の勉強について行けそうにない私は、こうしてやっと居場所を見つけました。
クラブはたいそうにぎやかで、3年生は男性だけで5人(これも相当後でわかるのですが、女性も3人ほど在籍していたのだそうです)、2年生は男性が3人、女性は7~8人いました。
そして私たち1年生が男性6~7人、女性が4人ほどだったように思います。
総勢30名くらいでした。 (記憶があいまいなもので・・・)
最初のころの練習はいわゆる「発声訓練」と言って、ギターに合わせてひたすら大きな声で「あ”~~~~」と言っているだけです。今から思えばむちゃくちゃな訓練でした(笑)
そしてすぐに先輩たちの指名でバンド(当時はグループと言っていました)を組むことになるのです。
実は私はその「最初のバンド」を覚えていませんでしたが、OB会で再会した工藤さんと前田さんから話を聞き、そしてこの原稿を書いていて徐々に記憶が甦って来ました。
このバンドについては後日、詳しく話します。
さて、バンドには「課題曲」というのが割り振られ、私たちはPP&Mの「The cruel war(悲惨な戦争)」を与えられました。えらいものでこの曲はいまだに弾けます(笑)
別に1曲、「自由曲」を決めることができました。
私たちのバンドには女性が二人いたので、赤い鳥の「誰のために」をやろうと私が提案してそれに決まりました。
これらの曲の出来によって、6月に開催している定期コンサート「カルティベートコンサート」に出演できるかどうかが決まります。
そのオーディションまでの2カ月あまり、必死で練習していた私たちでしたが、ある日、私の身にちょっと厄介な出来事が起こりました。
私の教室にサッカー部員たちがやって来たのです。
(つづく)