年が明けても、私は地学教室でほとんど練習らしい練習をしていませんでした。
ギターを机に置き、椅子に座って、なぜこんな事態になったのかということと、その打開策ばかり考えていたのです。
そんなある日、22期の谷村さんがクラブを訪ねて来てくれたことがあるとわかりました。やはり今回のOB会がきっかけで再会したおり、ご本人が私にそうおっしゃったのです。
ご本人の話によると、谷村さんが地学教室に行くと私一人で練習していたので事情を聞いたら「誰も来ないんです」と私は答えたらしいです。
言われてみればそんなことがあったようにも思います(笑)
カルティベート・コンサートという「部の定期コンサート」は谷村さんの企画立案であることは先述しました。
やはり「文化祭以外」での発表の場、研修の場を作ろうとお考えになったのでしょう。
そういうことが私にも影響を与えました。
当時、日本の「フォークソング」は初期の「反戦・社会問題」から「若者の日常」を歌うことに質的変化を見せていました。(若者の日常と言うたら日本では「恋愛」しかありませんな・・・ははは)
しかし、やはり学校や世間では「フォークソング」や「ロック」というのは「反体制を主旨とした教育上よろしくない音楽」というレッテルを貼られていたのでしょう。
私など公園でギターケースのふたを開けただけで警官に取り囲まれ、威圧的な職務質問を受けた事もある時代でした。
なかなか学校内で「クラブ活動としての市民権」を得られていませんでした。
活動費もあまり学校から出ません。音響機材などはとてもではありませんが買えませんでした。これは私どものクラブでも同じです。
中にはいつまで経っても予算が全然貰えない「同好会」としてしか認められていない団体もありました。
また、私たちアマチュアには外に向かって発信する場、つまりコンサートなどもあまり開催されていなかったのです。大手楽器店や放送局が開催するコンテストのようなものはありましたが、あれはやはり商業的で、私たちのようなアマチュア高校生が「クラブ活動」として学校の許可を得てオープンに参加するものでもないでしょう。
そこで私は考えました。
「大阪のそういう高校のクラブや同好会に呼びかけて、合同で大きなコンサートをやったらどうか・・・・・」
私は電話帳をめくって公私問わず、いろいろな高校のクラブ、同好会に主旨を書いた手紙を送り始めました。50通くらい送ったような記憶があります。
時には口先が達者なのをいいことに他校に直接電話もかけました(笑)
「そんな大きなイベントをやれば勝高の部員のモチベーションを上げることにつながり、クラブも活性化するかも知れない。予算ももっと貰えるかも知れない」と思っていたのです。
やがて各団体から徐々に反響も出て来ました。
そこで、まずは3月までに参加校をまとめようと考えていました。
4月になれば新入生も入ってくるだろうし、先輩たちもひょっとしたらまたクラブに来るかも知れない。そうなればクラブ全体でこのイベントを作っていけると思ったのです。
そんなある日、私は顧問の下郡先生に呼ばれました。
実質私一人でクラブ活動をしていることが問題視され、次の職員会議で議題にあがるというのです。
さらに、「現状のままでは休部か廃部になる」と言うではありませんか。
窮地に立たされました。
(つづく)