- 2025/05/11 [PR]
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が・・・・・・・
それを察知して、山縣さんが秘蔵の画像を送ってくださいましたので、最終回の前にご紹介いたしましょう。
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これは珍しい!
ギターを弾いている宮澤賢治ですね!
宮澤賢治研究に一石を投じる1枚! ざぶとん1枚!
(宮澤賢治はチェロとかではなかったでしょうか?)
左にいるのは・・・・・・これは・・・・・若き日のガッツ石松かも知れません。
山縣さんは・・・・・どこに・・・・・・・
真ん中の譜面台みたいなのがそうなのかな・・・・・・・・
そう言えばYの字が見えますね。
中学時代、人前で初めてギター演奏。
どう考えても、ギターの弾き方がど素人(笑)
何を歌ったのかは、全く覚えていません。
(by 山縣)
これは中学の同窓生の某氏と山縣さんです。
いやぁ、戦時中の学生みたいですね!
「節子~」とかいう声が聴こえてきます。
(右側の某氏はプライバシー保護のためモザイクをかけています)
これは文化祭での写真ですが、あまりよく写っていません。
PCで解析したところ右側にベースを弾いている人がいるようです。
42年10月8日 初めての文化祭。
フォークの舞台でテープが飛ぶなんて、考えられませんよね。
高校アイドル時代です(笑)
(by 山縣)
おお、勝山高校のHPにもある幻のオペレッタ「影をなくした男」の一場面です。
背景の手作り感が秀逸!
同上 42年10月8日
音楽部のオペレッタ『影をなくした男』
とてもフォークを歌っていた同じ男とは思えませんね。
両手を広げて、まるでオペラ歌手です。
(by 山縣)
うわぁ~これは懐かしい! そして、胸が熱くなる!!
文化祭の定番「教室喫茶」です!
窓の外の当時の風景・・・・・いかがですかぁ!!!
(右にいるのはどうやら女性のようですねぇ~)
おまけです。42年10月8日
フォークフェスティバルの後、どこかの部が開いていた教室喫茶店で。
(by 山縣)
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いかがでしたか?
なつかしゅうございましたネ??
貴重な写真の数々をお送り下さった山縣さんにお礼を申し上げます!m(__)m
さあ、山縣さんのクラブの思い出もいよいよ最終回を迎えます。
(次回のエピソードをお楽しみに!)
昭和43年4月9日以前、一緒にフォークをやっていたのは、
21期の入江・大石・山縣・山本と
22期の今村・谷口・谷村・梁川の8名。
あとは、我々21期のマネージャーとして大谷嬢が居ただけです。
そして、43年4月9日に正式に学校から認可された“音楽部付属フォーク科”には、
早速翌日から正式な入部希望者がやってきました。
現在東京に住んでいる稲葉嬢(当時2年)と最近、所在が分かった巽嬢(同・2年)の二人です。
(尤も、皆を総合すると、この二人はどうやら僕が「むりやり(?)」誘って入部させた感じも・・・)
翌週には入学したばかりの1年生が入部してきました。
18日に、
瀬田・福山・米津・岩崎君と田村・丹・岩井嬢の7名が、
20日に11名、22日に2名・・・
結局部員は32名に膨れ上がりました。
その後も、1年生・2年生が続々と入部し、1ヶ月後の5月4日には、部員数52名の勝山高校最大のクラブとなったのです。
その間も、我々JUNKMENはお呼ばれが続き、
5月13日『剣道部・新入生歓迎パーティ』
14日『勝山高校卒義生同窓会 若葉会』
などに出かけては、歌っていました。
そして翌々日の16日、
毎日放送の『ヤング・タウン』に出演したのです。
JUNKMENは、この毎日放送出演を最後に解散しています。
(続く…)
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天王寺区のアベノ筋東側路地にある「珉珉」です。
あの付近もずいぶん風景が変わってしまいましたが、当時の「珉珉」は高校生でも入って食べられるくらい安くてボリュームがありましたね~。
ユーゴー書店や喫茶店キムラヤもいまはもうありません…。
(次回のエピソードをお楽しみに!)
アイドル時代 (21期 山縣慎司)
グループ結成5ヶ月で、文化祭に出て4曲歌った事は
前回書きましたが、実はその前の結成1ヶ月後の6月に
自治会の歌声会特別企画委員会主催の
『第2回歌声会』に呼ばれ、2曲歌っています。
その時の曲は
『若者たち』と、『星に祈りを』。
まだ、ウッドベースを持っていなかったので、
4本のギターで歌いました。
グループとして、ウッドベースを手に入れたのは、
9月に入ってからの事でした。
3年生の先輩から1万円で譲り受けました。
我々が卒業した後、しばらくはクラブにあったと思います。
23期生の卒業アルバム。
後ろにいるのは24期生で、ウッドベースが写っています。
25期生の卒業アルバムにも…
これは生野高校との定期戦でのコンサート。
生野高校の視聴覚教室で26期生が歌っています。
ちなみに定期戦はこの回で終わりになりました。
グループを結成したのは良いけれど、
歌やギターを教えてくれる人がいるわけでもないので、
4人とも独学でした。
先生はもっぱら、“レコード”と市販の“譜面”だけです。
10月の文化祭の後、色々な所からお呼ばれする事が増えました。
12月4日 『勝山高校定時制 歌声会』
『Four Strong Winds』
『いじめっこの歌』
『コキリコ』
『Seven Daffodils』
『漕げよマイケル』
5曲も熱唱です。
翌43年
2月10日 『生野 高校・勝山高校 合同歌声会』
勝山高校のHPでは、この合同歌声会は
昭和44年2月7日となっています。
前年の昭和43年にも開催されたということなのでしょうか・・・
こういうの私・・・気になります(笑)
『Seven Daffodils』
『いじめっこの歌』
『Puff, the magic dragon』
『帰って来たヨッパライ』
『ケメ子の歌』
『Gone The Rainbow』
ここでは、厚かましくも、6曲大熱唱です(笑)
2月23日 『卒業生 送迎会』
『一人の手』
『イムジン河』
そして、4月9日・・・
ようやく“音楽部付属フォーク科”として、
認可されました。
音楽室にて
僕達は3年生になっていました。
(続く…)
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いやぁ~~大河ドラマですね~~~。
なぜか・・・浮いた話がありませんねぇ~~~
おかしいな・・・・・・
(次回のエピソードをお楽しみに!)
グループ結成は昭和42年の5月初旬です。
僕達は、2年生なっていました。
考えてみれば、2年では当然クラスは4人とも
バラバラになっていたはずなのに、不思議なものです。
結成当時のグループ名は“Four JUNKMEN”。(フォージャンクメン)
やはりブラフォーを意識していたのでしょうか?
結成と同時に、自治会執行部にクラブ認可の書類を提出しました。
5月中旬には、1学年下の岡嬢と藤中嬢(いずれも22期生)が入会しています。
で、グループ名も“JUNKMEN&FAIRIES”と改名しました。
下旬には、岡嬢と入れ替わって岡本嬢が入ってきました。
しかし、一ヶ月後の6月下旬には、元の男4人に戻り
再び“JUNKMEN”と改名し、その後は解散時までこのグループ名でした。
結局女性陣とは何の活動もないまま、終わったという事です。
結成から5ヶ月、新校舎で開かれた初めての文化祭
『フォーク・フェスティバル』に出演しました。
この時の記事が勝山高校の現在のHPにも記述があるんです!(驚)
検索方法は、まず左側のリンクの「大阪府立勝山高等学校HP」をクリック。
●創立90周年~●勝山高校の沿革~●1955~2004年~●1967(昭和42)年10月18日 第19回文化祭-移転後の初の文化祭
そこに「グループ参加」として記録されています。この時、山縣さんは音楽部のオペレッタ「影をなくした男」にも出演なさったそうです。
その時、歌ったのは
『Four Strong Winds』
『Gone The Rainbow』
『いじめっこの歌』
『Seven Daffodils』
の4曲でした。
(続く・・・)
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う~ん、新築された勝山高校の体育館(講堂)での演奏。
特にベースの入江さんの気合いの入り方は半端じゃないものを感じますねぇ~。
(次回のエピソードをお楽しみに!)
勝山高校入学 (21期 山縣慎司)
昭和41年・春。
受験をした、旧・勝山高校ではなく、巽の新校舎に入学しました。
勝山通りにあった勝山高校。21期生はここで入学試験を受けました。
のちに通信制の桃谷高校になり、現在は大阪府立桃谷高校がこの地に新築されています。
もうこの古い校舎はありません。
新築された勝山高校。
白亜の殿堂という感じでしたね!
まわりは文字通り田園風景がひろがっていました(笑)
畑、田んぼ・・・・そして牧場!
クラスは1年7組。
よりによって、男子ばかり50人のクラスでした。
「男女共学校」に入学したはずの1年7組(笑)
よく見れば全員の表情に怒りとやるせなさが漂っています。
しかし、そこに居たのが、入江正博・大石正人・山本隆の3人。
そして、のちの放送部の部長・片山光男も同じクラスでした。
片山と同じクラスだった事が、その後放送部の女子を大勢
フォークソングクラブに誘い入れるきっかけになったのでしょうか?
因みに、
片山は、その後アナウンサーとなり、現在も大阪で後進の育成に当たっています。
国鉄(現JR)の切符。10円です!
改札では「カチカチカチカチ」という鋏の音がずっと聞こえていました。
「時代の音」ですね~。
どういうきっかけで、「4人でフォークをやろう!」となったのかは、
45年も過ぎた今、全く思い出す事が出来ません。
しかし、4人でグループを組み“クラブを作ろう”としたことだけは、
間違いないようです。
当初は、練習場所もなかったので、山本が言うように
廊下や校門内の芝生などで練習していました。
音楽部付属となった後も、コーラス部が使っていない時に
音楽教室を使えるぐらいで、もちろん楽器置場もありませんでした。
(因みに、2年時のコーラス部の部長は僕でした)
何故、僕がコーラス部に入ったのかも良く分かりません。
「フォークをやるために」などと格好良い事を言っていますが、
僕自身、1年の春過ぎにはもうコーラス部に居たので、
フォーク云々は、後付けに過ぎないですね。
(続く・・・)
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国鉄の切符!
よくもまあこんな古いものをお持ちでしたね、山縣さん!
すごいです!
(次回のエピソードをお楽しみに!)
本当に「人の縁」というものは不思議です。
21期の山縣さんと私のつながりは、昨年3月のたった1通のメールからでした。
以来、一体何通のメールをやり取りしたでしょう(笑)
その節、山縣さんに私のメールを転送してくださったホームページ班のかたにはお礼の言葉もありません。
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フォークソングとの出会い… (21期 山縣慎司)
あれは中学1年生だったでしょうか・・・。
何のきっかけで聴いたのかは覚えていませんが、
“500Miles(邦題『500マイルも離れて』)という曲が、
妙に耳について離れませんでした。
ヘディ・ウェストが、子供の頃に祖母が歌っていたこの曲を思い出し、
自分のファーストアルバムに収録した曲ですが、
実際に世に知られるようになったのは、
1962年、PP&Mがフォーストアルバム『ピーター・ポール&マリー』に
収録してからでした。
1962年、僕は12歳、中学に入ったばかりの頃でした。
おそらくラジオから聞こえてきたであろうこの曲に魅せられて、
僕はどうしてもギターが欲しくて仕方がありませんでした。
しかし、どう考えても一月300円の小遣いしか(50年前ですからね)
もらっていない僕にギターなど買えるはずがありませんでした。
ある日曜日、親父が僕を松屋町に連れて行ってくれました。
話し言葉だと、“まっちゃまち”ですね。
あるおもちゃ屋だったか、楽器屋だったかで
買ってくれた4500円のガットギター、
それが最初の自分の物となった楽器です。
それからは、毎日たった一人で、
『レモンツリー』、『花はどこへ行った』、『天使のハンマー』などを
一生懸命練習したものです。
しかし、たった一人で誰に教えてもらう訳でもない僕の
ギターテクニックなど知れたものでした。
しかし、それからは、キングストントリオやブラザースフォー
など、男性だけのグループに憧れたものです。
その思いがきっと、高校に入ってから男性四人での
『JUNKMEN』になったのかもしれませんね。
(続く)
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その後、調べましたら、「人形のモリシゲ」がちょうどその当時「楽器店」も併設していたらしいのです。
山縣さんはそこでギターを買われたのかも知れませんね~。
(次回をお楽しみに!)
認可当時の3年生が21期生です。
そういう意味で私はクラブの創立メンバーを21期、準創立メンバーを22期という風に解釈しています。
(これはあくまで私個人の解釈ですので,その点ご容赦ください)
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練習場所 (21期 山本 隆)
高校時代の思い出はあまりないのですが、バンド練習は校舎の渡り廊下や校門前の校庭など、室内じゃなく屋外でしていたと思います。
メンバーとは学校以外で ホーム麻雀やお酒飲んだり遊んでいた。
入江は女気なかったけど、大石と山縣は結構淡い思い出があると思います。
ほほぉ~、これを裏付けるようにご同期の山縣さんからもこのようなお話を頂戴しています。
朝や放課後、度胸をつけるために正面玄関前で歌ったりしたものです。
放送開始1年目の毎日放送『ヤングタウン』のオーディションに受かって出演したのは確か2年の時ではなかったでしょうか。
それも懐かしい思い出です。(21期 山縣慎司)
なるほど、…こんな感じですね?
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今で言う「路上パフォーマンス」みたいものですね(笑)
私が高校時代、天王寺公園でギターケースを「開けた」ら警官が飛んできて「何しとんじゃ! それなんや! こんなとこで開けるな!」と恫喝されたことがありました。
「ギターケースを開けただけ」でそんな風に言われる時代でしたが、先輩たちのころは今と同じくおおらかだったのかも知れませんね。(路上パフォーマンスって、あれ、道路交通法に触れないのでしょうか?)
山本さん、ありがとうございました!
※その後、山縣さんから「練習は校門の内」というご指摘がありましたので、イメージ画像を下記に変更します。
ちょうどいいアングルの写真がなかったのでこれでご容赦を・・・・
第4話 【下郡先生に感謝!】
24期有志で、ブラザースフォーだったか忘れましたが、確かサンケイホールでのコンサートに行ったときに偶然、下郡先生も見に来られていた事があります。
先生もお好きだったのか、顧問としてなのかわかりませんが、当時連帯感を覚えた記憶があります。
また、当ウォーリアス(大塚、五十嵐、辻岡)で活動していたときに、全国フォーク音楽祭の関西地区大会が神戸であり、これに参加するためには学校を早退しないと間に合わない状況の時に、下郡先生が学校に交渉してくださり、無事参加できたことも、当時すごくうれしかった思い出があります。
(結果、関西地区大会で敗退しましたが当大会の優勝者が後にデビューしたチェリッシュだったような気がします。誰か覚えてる??)
※その後、調べましたら「チェリッシュ」は中部地区の代表で、そのあと全国大会で優勝しているようですね。
関西大会では誰が優勝したのでしょう・・・・?
※上記画像は24期大塚さんからご提供いただきました。
左からジローズ、赤い鳥、ビリー・バンバンだと思われます。
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顧問の下郡先生には私も大変お世話になりました。
1年生の秋から翌年3月までの半年間、実際に活動していたのはクラブで私一人という状況になり、職員会議でクラブの休部が議題に上がるとおっしゃるので、「新入生が必ず入ってきますから、それは避けてください」とお願いしましたら、先生が職員会議で弁明してくださり、休部は免れたのです。
あのとき、休部が決定していたらクラブはなくなっていたかも知れません。
辻岡さん、いろいろなエピソードを送ってくださりありがとうございました!!
また何か思い出がありましたら是非お送りください。
※良い子の皆さん、そして現役の勝高生は絶対にマネしないでください。
しかも「実名」での登場ですよね…(笑)
登場した24期のかたがたへ。
投稿者の辻岡さんが「ブログで謝っておいてください」とおっしゃっていましたよ(笑)
改めて……
大塚さん、戸室さん、橘さん
すみませんでした!!!!!!(by 辻岡)
さて、辻岡さんから送られたエピソードはまだまだ続きます。
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思い出ぼろぼろ・・ (24期 辻岡嘉人)
第2話 【嗚呼、ハッセイ!】
新入生の頃は23期の先輩(武田さん、米津さん、なぜか岩崎さん)に発声練習ばかりさせられていた記憶があります。
校庭の朝礼台の上で発声した記憶も、かすかに残ってますが24期のみんな覚えてる?
※「発声」も新入生がぶつかる課題ですね~。いまから思えばむちゃくちゃで、間違った「発声」でした(笑) (岩鶴談)
第3話 【ロマンチック…街道・・・じゃなくて食堂】
定時制の学生で、学校食堂で働いていた何とかチャン(名前忘れました)が、夕方の定時制始業前にいつもフォークソング部の練習を見に来てました。
我々は彼女とはすっかり仲良くなって、食堂でのサービスもかなり良くなりました。
私が2年の時は9組で体育館に一番近い教室(イコール食堂に一番近い)でしたので、3時間目が終わったら食堂の、しかも厨房の中で、その「何とかチャン」とダベッテいた思い出があります。
(クラブとちょっと離れましたね。ごめんなさい)
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ああ、私もあの女性はよく覚えています!
私が「フォーク」の部員だと知ると、急に親しげにしてくれました。
お顔はいまも覚えていますよ~。でも、もうあの食堂も営業していないんですよね~淋しいなぁ~。
甘酸っぱい思い出~イイナァ~~~(笑)
(次回のエピソードをお楽しみに!)
それは……チューニング(笑)
今は「電子チューナー」という「音程が見える」便利な道具もありますが、あのころは基本的にA(440hz)の音叉で5弦を合わせることから始めたのでした。
その5弦を基準にして、ポーン、ポーンとハーモニクスで他の弦を合わせ・・・・。
やっとできたと思ったら先輩がチェックして……
「アマイな~やり直しぃ~~~~~~~~~」
とか言って全部のペグをグルグルまわして・・・・・・。あ~、ツライ~~~~~~。
でも、そのお陰で私たちの耳は鍛えられたのでしょうネ!
ギターの音は合わせられるようになっても、体と心をフィットさせるチューニングは・・・・ひょっとしたら大人になった今もできていないのかも知れません(笑)
さて、「OB会開催一周年記念事業」として発案した
「あのころ、ボクたちのチューニングは甘く、切なく・・・・」
早速、24期の辻岡嘉人さんが投稿してくださいました!!!!
辻岡さん、ありがとうございます。
いくつものエピソードがあるので、何回かにわけてアップしますが、OBの皆さんも共感するところがあればぜひフォローのコメントをお寄せください!!
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思い出ぼろぼろ・・ (24期 辻岡嘉人)
クラブの思い出は、多すぎて何から書こうか迷ってしまいますが……
第1話 【ボクたちのイケナイ火遊び】
ろくに練習もせずに地学準備室でよく遊びました。(但しカルティベート、文化祭前はもちろん練習べったりでしたよ)
24期で人気No1.は冬季限定ストーブを使ってのお遊びです。
ストーブのてっぺんに、マッチ棒(何で高校生がマッチ持ってんねん。大塚やろ!!)を置いてどれが最初に燃えるかを賭ける。
といってもお金を賭ける訳ではなく(当時は貧乏学生でしたよね。。)負けた人が1枚づつ服を脱いでいく・・
地学教室に近いトイレで脱いでいました。
決戦ではっきり覚えているのが、戸室君VS橘さんの対決。
さすが根性の橘さん。戸室君をパンツ一丁にさせてしまいました。
(とはいっても、さすがにコートを羽織っておりました・・)
僕の記憶では、パンツまで脱がすことはなかったと思います。
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(次回のエピソードをお楽しみに!)