- 2025/05/10 [PR]
- 2012/09/22 期待と失意
- 2012/09/21 か、か、カツヤマァァァァ?????
- 2012/09/20 The Brothers Four のお話
- 2012/07/06 あのころ、ボクたちのチューニングは甘く、切なく…VOL.16
- 2012/06/13 あのころ、ボクたちのチューニングは甘く、切なく…VOL.15
- 2012/06/11 あのころ、ボクたちのチューニングは甘く、切なく…VOL.14
- 2012/06/10 あのころ、ボクたちのチューニングは甘く、切なく…番外編
- 2012/06/09 あのころ、ボクたちのチューニングは甘く、切なく…VOL.13
- 2012/06/08 あのころ、ボクたちのチューニングは甘く、切なく…VOL.12
- 2012/06/07 あのころ、ボクたちのチューニングは甘く、切なく…VOL.11
大阪ミナミのど真ん中にある私の中学とは規模が全く違いました。
正門から校舎までの距離がすごい!
あの敷地だけで私の通っていた中学がすっぽりと収まってしまいそうです。
校舎の正面は2階の天井の高さまでの、すなわち5メートルはあろうかと思われるほどの、見た事もない大きな透明ガラスが全面に張られキラキラ輝いています。
校舎の塀沿いに歩くと、ばかでかい体育館が見えました。
あれなら1,200人くらいは入るのでしょう。
私の中学全体の3倍強くらいの在籍規模です。
やがて、いくつものテニスコートが見え、その向こうには広大なグラウンドが広がっています。
あんな広い空き地を見たのは初めてでした(笑)
私は中学でサッカー部にいましたので、グラウンドで川澄や鮫島とボールを追って元気に颯爽と走り回っている自分の姿を想像しました。
これまでいくつかの府立高校を見学に行きましたが、あんなに真っ白に輝く校舎と青空の広がるグラウンドを持った高校はなかったように思います。
たちまち私は「勝山に行く」と決心しました。
若い頃はこのように「見えるもの」で判断してしまいます(笑)
数日後、教室で同級生にこの話をしましたら、当時仲の良かった連中、これらはやはり学年で成績のいいものばかりでしたが、彼らもやはり担任から「勝山高校を勧められた」というのです。
「なぜ担任は勝山をそんなに勧めるのか?」
今もって謎です。
ともあれ、担任に「勝山高校を受験する」旨を伝えました。
そして、中2の終わりに心臓の疾患でサッカーをひとまず禁止されていた私は、病院の主治医に念のため「高校でのサッカー部所属が可能かどうか」を尋ねました。
すると、「できません! サッカーはおろか体育の授業も内容を選んで受けるように」と言い渡されてしまったのです。
つまり私はオリンピックもワールドカップもあきらめざるを得なくなったのです。
(私はこのとき、今で言う「中2病」も発病していたようです)
私は勝山高校への期待と、サッカーをあきらめなければならない失意との間で揺れながら受験の日を迎えたのでした。
(つづく)
その後、投稿がないためです(笑)
あ、尤も、山縣さんには不定期に続編をお送りいただいております。
この場でお礼申し上げます。m(__)m
でも、あまりこのままにしておくと、山縣さんに投稿の催促をしなければならなくなってしまうのではないかと危惧されます(笑)
しばらくの間・・・・・いやいや、相当に長いと思われますが・・・・私の「アマチュー」を連載いたします。
ヘタな文章ですが、あのころを思い出してご高読くだされば幸いです。
26期■岩鶴恒義
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担任のS先生に「お前、どこに行きたいねん」と訊かれた私は即座に「I高校」と答えました。
するとS先生は「・・・・お前・・・・勝山行け」というのです。
「へ?・・・か、か、カツヤマァァァァ?????」
当時、私の学区で「勝山高校」と言えばすでに偏差値が急激にロールダウン中だったし、
なにより1学年上の大嫌いなヤツが進学した学校だったので、私にとっては一番避けたい
学校でした。
そもそも私、中学では学年で3番の成績やったんですよ! 3番!
(生徒数が3人だったわけではありません。念のため)
「ええゾ~勝山は~。スクールバスもあるし、この間(5年前)校舎が新築されたからピカピカやぞ~。いっぺん見に行って来い」
と、S先生は言うのです。
ガックリしながらも私は父の運転する軽四で、家から遥か彼方にある勝山高校を念のために見に行きました。
大阪環状線の高架下の勝山通りに入ったとき、車の8トラカーステレオから流れていたの
は「ティコティコ」という曲だったことは今も覚えています。
それが「枯葉」に変わり、やがて「イエスタディ」も終わろうとしていました。
「おいおい~どこまで行くんや~」
と、思われるほど勝山通りを東に向かいました。
「あれ生駒山やんけ! おいおい、勝山って奈良にあるんか?!」
シティボーイの私(笑)にはあまりに淋しい田園風景が広がっています。
畑、田んぼ、工場、倉庫群・・・そして舗道部分はまだ土のままの道路・・・。
そう言えば、大昔、「自動車道」(アスファルトの道)とか「電車道」(市電などの路面電車道)とか言うてましたね・・・。
やがて「ムゥオゥ~~~」という牛の鳴き声がかすかに聴こえて来ます。
「矢柄(やがら)牧場? ここは一体どういう場所なんだ(やねん)!?」
牧場とは名ばかりの、ほとんど牛舎だけのその平屋の建物の前に・・・・
白亜の殿堂、大阪府立勝山高等学校が私の眼前にその威容を現したのです。
(つづく)
The Brothers Fourの『Seven Daffodils(七つの水仙)』でした。
レコードが擦り切れて、音が飛んでしまうぐらい聞きました。
今のように、ちゃんとした楽譜があるわけでもなかった45年前、
ハーモニーを聞き取るためには、ただひたすら曲を聴くしかなかったのです。
2011年6月4日のOB会でのスライドショーで公開された当時の写真を
見ていただければ分かると思いますが、音楽室での練習風景、
あれはThe Brothers Fourのレコードを真剣に聞いているところです。
♪I may not have a mansion, I haven't any land
Not even a paper dollar to crinkle in my hands
But I can show you morning on a thousand hills
And kiss you and give you seven daffodils
そして初めての舞台、昭和42年の文化祭での我々は、
ナイロン弦のギターを持ち、紺のカーディガンを衣装として着ています
(もっとも写真はモノクロなので、色は分からないと思いますが、紺です!)。
これは明らかに、デビュー当時のThe Brothers Fourを意識していますね。
男4人組のバンドにとって、やはり目指すところは“ブラ・フォー”だったのですね。
だけど、あの綺麗なハーモニーを完全にコピーする事は叶わなかったです。
しかし、その後のステージでは、この『七つの水仙』と『いじめっ子の唄』が
必ずリストに入っていました。
お・し・ま・い
21期 山縣慎司
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いいですねぇ、「七つの水仙」!!
私も大好きな曲です。
これ・・・著作権大丈夫なのかな・・・・・・・・(笑)
でも、ひとまず掲載します!
勝山高校1年生で入学したての頃、いろいろなクラブが勧誘ののろしをあげていました。
私は、運動音痴なので、文化クラブしか興味は無かったですが、地学教室の隣りの部屋から楽器やら歌声が聴こえてきておもわず入りました。
福山さんと米津さんの二人組のバンド、
武田さんの3人のPPMスタイルのバンド、
ウオーリアス(24期男性)の三人組、
あまりにもかっこよくて眩しくておもわずほかのクラブは一切見学せずに、
うっかりとその場で入部 してしまいました。
そのうっかりが現在に至るまで音楽活動を続けるきっかけといえるでしょう。
入部した日は雨。
かっこいい先輩に相合傘で送っていただき、なんかいまから考えると夢のようでしたね。
大先輩の入江さんがたびたび来られてうんちくうんちく………
なかなか厳しい特訓もなんか体育会系で、私は運動はしないのにい、、、。なんて。(≧∇≦)/
でもどれもこれも無茶懐かしい思い出です。
エルフは吉田さんと荻田くんと三人で楽しかったな。
相棒の「けみ」(吉田さんのこと)とは夏も冬もおんなじバイトして練習合わしたり、
定期戦も文化祭も選ばれるようにがんばりました。
わたしにとっての勝山高校フォークソングクラブはいまの私があるルーツです。とっても感謝してます。
創始者の21期生のみなさん、本当にありがとうございます。(#^.^#)
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「つい、うっかり」
そんなささいなことが後の自分に大きな影響を与えるということ。
う~ん、考えてみれば人生と言うのはそんなささいなことの連続ですね(笑)
小路さん、投稿してくださりありがとうございました!!m(__)m
※ブログでは皆さんからの投稿を引き続きお待ち申し上げます。
宛先は・・・・ご存知ですよね?
何を載せたらいいのか 考えているうちにすっかり忘れてしまって、申し訳ありません。
私はクラブにはほんのちょっと参加していただけなのですが、昨年のOB会に参加する前までは青春が蘇ったようで楽しみにして行きました。
しかし、同期も少なく私を知っている人がいなかったのでショックでした。
でも、先生や先輩方にお会い出来て良かったです。一瞬でも青春が蘇って嬉しかったです。
コメントとしては、「ひとときの青春をありがとう」です。
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う~ん……これは…OB会のお礼ですね?(笑)
こちらこそありがとうございました!
あのとき、本会ぎりぎりまで22期生を探したのですが、なっかなか見つけられませんでした。
すみません……m(__)m
でも、皆さんのご協力で、22期生は現在6名のかたのご所在が判明しました。
お亡くなりのかたも多数いらっしゃいましたが、次回開催するときには昨年よりにぎやかになるのではないかと思います。
今後とも宜しくお付き合いください!
23期 福山隆司さんの「思い出」もひとまず今回が最終回です。
いやぁ~トミヤ楽器さんの話題をご提供くださりありがとうございました!
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【定期戦】
たぶん2年生の時だとおもいますが、生野高校との定期戦のとき、フォークソングクラブも生野高校に行きました。
お互いのレパートリーを歌ったとおもいますが、あまり記憶にのこっていません。
ただ生野の部長が自分で作った曲(オリジナル曲)を披露してくれたことと、
勝山の部長の谷村さんと生野の部長との演奏、
Peter Paul and Mary 「Don't Think Twice It's Allright」
http://www.youtube.com/watch?v=NQZI0fZOQng&feature=related
はすごく印象に残っています。(二人ともうまかったなぁ)
谷村さん、覚えてないでしょうね。
自分たちのレパートリー(コブのない駱駝)も曖昧でしたもんね?
【カッコー鳥】
PPMの曲でカッコー鳥というのをご存じでしょうか?
このギターでポールのパートの出だしに 1弦で(ミ・ファ・ミ・スラーつき)と弾くところがありました。
http://www.youtube.com/watch?v=7cLcagFXpnI
このギターのことで、1期上の松岡さんと話をしたことがあります。
松岡さんとはほとんど話をした記憶はありません。
印象としてはこの時の話が最初で最後だったようにおもいます。
当時、ハンマリング・オンは知っていたけど、プリング・オフというテクニックはあまり知られていませんでした。
それさえ、知っていれば簡単にできたはずなのに・・・・・
松岡さんは、この部分は4フィンガーでないと弾けないとおっしゃいました。
私は、ハンマリング・オンで (ミ・ファ)と弾いたらどうでしょうと主張しました。
松岡さんはそれだと最後の(ミ)の音が弾けていない・・・だからすべてを弾くには4フィンガーでないと無理なんや・・・と。
たしかにそうです、だれも左手で弦をはじくとは思わないですからね。
しばらくしてから、プリング・オフというテクニックを知りました。
おそらく松岡さんも・・・・しかし確認できないままです・・・
とても残念です。
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22期の松岡功さんは昨年1月にご逝去なさいました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
トミヤ楽器は福山さんの投稿にもあるように天王寺公園の東側入口近くでいまも営業なさっているのですが、アベノや天王寺付近は近年ずいぶん変化しました。
私たちが高校時代を送ったころの建物はどんどんなくなりましたねぇ~~。
アポロビルはいまも健在ですが、あの中にあった三木楽器や、なんとかという名前のサテライトスタジオもなくなり、いまはゲームセンターになっていると思います。
最近完成した「あべのQ’sモール」はなかなか繁盛しているようですが、それが完成する前のアベノ筋の様子を撮影した写真を24期辻岡さんが送ってくださいましたので、番外編として披露します。
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阿倍野体育館です。
解体寸前の写真ですね~。
「阿倍里体」と読めます(笑)
このころは「耐震性に疑問あり」ということで貸し出しもされていなかったと思います。
今は・・・・「あべのベルタ」の中にこういう施設があるのでしたっけ??
阿倍野体育館を背にして、西側を臨んだ位置ですね。
「珉珉」 「マルヨシ」 「正宗屋」 「コクミン」
などの看板が見えますが、これらは「あべのQ’sモール」の外側にある「ViaあべのWalk」に入居して営業しています。
おお~老舗の「明治屋」です。
これもViaあべのWalkに「そのままの形」で移転しているようです。
珉珉ですね。
看板だけ見えている「ワタナベ楽器」はこの写真の手前にあるのでしょうね。
効果音のCDを買ったなぁ・・・・。
そう言えば、アポロビルの南側の「旭町商店街」にあったいろいろな飲食店(焼き肉のかどやとか・・・)も、ViaあべのWalkに入居しているようです。
あの商店街は風情があったけどなぁ・・・・・・・。
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皆さんも「懐かしのアベノ・天王寺」の写真があればぜひご一報ください。
辻岡さん、ありがとうございました!!
(次回のエピソードをお楽しみに!)
入部して、すぐにギターを買いにいったと思います。
米津はガットギターをもっていたので、それでしばらくは演奏していました。
私は、中学2年のお正月に買ったフォークギターでもなくガットギターでもない、スチール弦のギター(なんというギターなんでしょう?)だったので、フォークギターが欲しかったのだとおもいます。
先輩にどこで買ったらいいか教えてもらいました。
それは、天王寺公園の近くにあるトミヤ楽器というところでした。
この日はお休みでした(笑)
フォークギターならやっぱりYAMAHAかなぁ・・・と思い、ちょっと小ぶりのFG150を選びました。(岩鶴くんもこのモデルを持っていたとか)
150なのに定価¥16,000?
FG180は18,000円なのにちょっと損した気分だったことを覚えています
その時ではないと思いますが、専用のハードケースも買いました。
何回かハードケースにいれて自転車通学した記憶があります。
このギターが(たぶん3年生のとき)地学教室に置いていてなくなってしまったのです。悲しい出来事でした。
この時はソフトケースにいれていたので、結局ハードケースだけが残ってしまいましたが、FG150専用なのでどうしようもなく結局、何年かして捨ててしまいました。
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今ではこのFGシリーズが伝説になっていますね!
ずいぶん前、上六の古道具屋さんでFG-180が店先に無造作に置かれているのを見て「ほしぃぃぃぃぃ!」と思ったのですが、カミさんに絶対叱られるだろうと思ってあきらめました(笑)
※ちなみにその中古のFG-180は3,000円でした。
確かに学校ではギターを始め、盗難が多かったですね~。
私が部長になったとき、日本橋の五階百貨店で長い鎖とシリンダー錠を買い、地学教室に置いてある楽器類をみな鎖でつないで盗難はなくなりました。
(次回のエピソードをお楽しみに!)
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入部 (23期 福山隆司)
入学したときは、サッカー部に入ろうと思っていました。
ではなぜフォークソングクラブにはいったかというと・・・
1年生のとき、たまたま米津と同じクラス(1年4組)になり、二人とも中学の時からギターを弾いていたということで意気投合し友達になりました。
ある日、1年4組の教室のすぐ近くにある地学教室から、ギターの音がするということで米津と二人で見学にいきました。その後、どんな展開になったかははっきり覚えていませんが、すぐに入部したように思います。
おそらくこんな感じだったのでは
「二人ともギターをもってるんや、 じゃぁすぐ入部しなさい、もうすぐ正式なクラブになるし・・・」
その後、田村さんと丹(?)さんが入部してきたので、先輩に4人グループでやるようにいわれた記憶があります。
先輩というのははっきりしませんが、入江さんあたりでしょうか、課題曲も与えられました。
「星に祈りを」です。ハモりを練習した記憶はありませんので、歌ってないかユニゾンでサビのところだけ歌っていたのかですね。
1年生の文化祭では、この「星に祈りを」とPP&Mの「井戸端の女」の2曲を視聴覚教室で演奏しました。
私も高校入学直前にはサッカー部への入部を考えました。
理由はもちろん小学校からサッカーをやっていたこと。
そして勝山高校サッカー部が日本代表GKの浜崎さんを輩出していたことです。
ところが私は入学時には心臓を悪くしていて、高校レベルの運動量に自信が持てなかったので、「フォークソング部」を選びました。
課題曲・・・・ありましたねぇ・・・・・。
私どもはPP&M「CRUEL WAR」でした。
(次回のエピソードをお楽しみに!)
ヤマハ音楽振興会主催による音楽コンテストと言えば、『ポップコン』が有名ですが、
昭和42年から5年間、『ヤマハライトミュージックコンテスト』という催し物が開催されていました。
この大会からプロになったグループには、
ジャックス(第1回)
赤い鳥(第3回)
オフコース(第3回)、
チューリップ(第4回)
などがいますが、
どこでどう聞きつけたのか、『ヤングタウン』出演後、JUNKMENに
「『第2回ライトミュージックコンテスト』の大阪地区予選に出場しないか?」
という話がヤマハから舞い込んで来ました。
「我々ド素人に?」
でも………
「フォークをずっとやり続けるつもりはありません。我々はこの後、大学受験を控えているので・・・」
という事で出演は辞退しました。
(本音は、「とても我々の力では無理」でしたが・・・)
そして、その言葉通り、『ヤングタウン』出演後、バンドとしての活動は終わりました。
フォーク科とはいえ、曲りなりにもクラブが出来てわずか1ヶ月半後でした。
その後はそれぞれが、ソロで歌っていました。
43年10月7日に開かれた、新校舎第2回の『文化祭』には、
それぞれがソロで出演しました。
入江『ガイコツの唄』
山本『旅立つ人』
山縣『ベトナムの空』
もちろん、その後も4人で集まっては、歌ったり遊んだりしていましたが、対外的な活動は一切ありませんでした。
そして、・・・44年・春。
我々21期生はたくさんの思い出を残し、勝山高校を卒業したのです。
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山縣さん、たくさんの思い出をお送りくださりありがとうございました!m(__)m
私の想いなど取るに足らぬことですが、21期生の皆さんのお陰で、私も貴重な青春時代を送ることができました。
この場を借りて、21期生を始めとした先輩方、そして協力してくれた同期生、さらにこんな私に付き従ってくれた後輩の皆さんに感謝いたします。
さてさて、次は誰が「思い出」を披露してくださるのでしょうか?
(次回のエピソードをお楽しみに!)