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アリスをゲストに迎えた私たちの「合同コンサート」には、2,000人の観客が集まりました。
明らかに消防法違反の動員です(笑)

何しろ入場料が150円だったのです。
調べましたらビール1本140円、かけそば120円の時代ですから、今で言えば500円ワンコインのコンサートに今をときめく人気プロバンドがゲストという感じでしょうか。そりゃお客さんも来ますわね・・・・(笑)

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余談ですが、私はこのコンサートに出演していません。
できるだけ後輩を出演させようと思っていたのと、おそらく当日は今で言うAD的な動きをしないといけないだろうと思っていたからです。
 

果たしてコンサートの出演者たちは喜んでくれていたのでしょうか?
今は何も思い出せません。
高校生のこととて「打ち上げ」もやっていませんのでほとんど何の記憶もないのです。
 

堺ヤマハのほうは、実働してくれた大学生スタッフはもとより、会社の人たちも喜んでくれていたように思います。
しかし、やはり「企業の営業活動の一部」ではあったでしょう。まあ、これは仕方がないことですね。
このことは「純粋な意味でのアマチュアコンサート」とは言えない部分ではあったと思います。

後日、ヤマハのスタッフはこのコンサートの企画の進行上、いままで各校に連絡を取り、頻繁に堺東まで出向いた私の個人経費を考慮してくれ、予算の中から5万円だけ負担してくれることになりました。これは当時の大卒初任給並みです(笑)
逆に言うと・・・いまの物価で言えば、このコンサートの準備に高校生の私は20万以上使っていたと言えるでしょうね?!
ありがたいことではあったのですが、このことが後日、禍の種になってしまいます。
 

さて、合同コンサート(チケットには「関西L.M.連合フォークコンサート」と表記されていますが、これは堺ヤマハの大学生スタッフが名付けた)は終了しましたが、今後のことを考えないといけません。
参加校の代表が堺ヤマハの会議室に集まりました。
 

●今後、このイベントを定期的に開催するかどうか。
●ネーミングはこのままでいいのかどうか。
●やはり堺ヤマハに継続的にスポンサーになってもらうかどうか。
●団体の代表は誰にするのか・・・・など。
 

結果的に今回は私が団体の「代表」となっていましたが、この企画は後輩に託すつもりのものでしたから、私に「代表」を続ける意志は毛頭なく、この会議での決定も、後輩達が動きやすい指針にならないといけません。
そう考えると、今回と同じ規模で開催するにはどうしてもヤマハのような大きな法人がバックにつかないと実現は困難でしょうし、それと交渉して行くにはやはりある程度のマネジメント力が代表者(リーダー)には必要です。
同時にもっと純粋に「アマチュア」のイベントにしたかった部分もあります。
これはこの活動がそれぞれの学校の「認知」の下に展開されてほしかったからです。
そのような様々な事情を検討して、
 

①団体は活動を継続、発展(参加校を増やす)させること
②スポンサーを求めず、入場無料で開催すること
③団体代表は参加校の各代表者の協議で決めること
 

以上を合議決定したように思います。

今回「ヤマハ」がスポンサーになって開催したことには各校から相当に強い非難が私に向けられました。
「商業主義」「フォークの精神を汚した」「主体性がない」とかのさまざまな批判です。
これには申し開きのしようもないし・・・・何をどうやっても「批判」や「非難」はつきものですからね。
ヤマハのスタッフは引き続きこのコンサートを開催したいようでしたが、我々の「アマチュアイズム」を尊重してくれたのでしょう、継続協賛を断念してくださいました。
私個人は継続開催するならやはり経費のことも考えて、当分はヤマハとの協力体制は維持したほうが良かったのではないかと思いましたが、これはしょうがないことですね・・・・。


おっと、団体の名前をつけるのを忘れていました。
もう私には「名前」はどうでも良かったのですが、生野工業の連中がいつもの悪ノリで・・・・

(つづく)


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堺市民会館大ホールは約1,400人収容の大きなホールです。

私たちの団体にはいくつの学校が加盟していたのでしょう・・・・。

記憶では・・・
勝山高校はもちろんですが、四天王寺高校、帝塚山高校、生野工業高校、千里高校・・・・生野高校・・・天王寺商業・・・あれ?・・・もっとありました・・・。
全部で12,3校は加盟していたはずなんです。
仮に14校加盟していたとしても1校あたり平均100人動員しないと会場が埋まりません(笑)
これは相当にむずかしい数字かも知れません。
特に所在地が大阪市内ではないというのは不利でした。
堺ヤマハの担当スタッフもこれには頭を悩ませました。

そこでアマチュアだけのコンサートでは十分な集客が望めそうにないので、結局プロの「ゲスト」を入れることになりました。それで集客力をアップさせようという狙いです。
私はすでにこのころ親交のあった人気バンド「ザ・ムッシュ」に出演を依頼しようと思い、メンバーの一人に電話しましたら、「その日はスケジュールが入っていたように思う」と言うのです。しかし、「プロダクションに伝えておくから、いちど相談に行って来い」ともおっしゃってくださいました。
しかし「プロダクション」のマネージャーがいくら「仕事」のこととは言え、高校生である「私」の話をまともにとりあってくれるのでしょうか?(笑)
 

不安を抱きつつも私は単身、ザ・ムッシュの所属事務所を訪ねました。
当初、ナンバにあったその事務所は、その頃、心斎橋あたりに移転していました。
古い民家みたいなところで、そのプロダクションの「社長の実家」というようなところだったように思います。
 

マネージャーと話をしましたが、やはりザ・ムッシュはスケジュール的に難しいとの事でした。
しかし、ほかに誰が・・・・と考えた時、マネージャーが提案してくれました。
 

「アリスはどうですか?」
 

多くの方がご存じの伝説的バンド「アリス」はそのころ結成したばかりでしたが、その人気は昇り調子でした。
私は堺ヤマハに了解を求め、契約書にサインしました。

(つづく)




私は各校の代表への連絡とともに、Gとも頻繁に連絡を取り、打ち合わせを重ねていました。
 

そんなある日、Gは「心斎橋ヤマハではこの企画を実現できない」と私に言います。
おそらくGの「企画の売値」が、いや、ひょっとすると「企画を売ろうとする行為」そのものが障害になったのかも知れません。あくまで私の推測ですが…。
そしてGは「今後は堺ヤマハに企画を持って行く」というのです。
私とGは南海高野線「堺東駅」近くの「堺ヤマハ」を訪ねました。
そこには大学生のスタッフが2人いて、彼らがこの企画に興味を持っていたらしいのです。

当時の「堺ヤマハ」は大きな楽器店で、ヤマハを始め、有名かつ高価なギターが多く陳列されていました。
ここに来れば素晴らしいギターに囲まれ、時にはそれらを試奏できるかも知れないという環境に強い憧れもあった私は頻繁に出入りし始めました。もちろん、ただ遊びに行っていたのではなく、スタッフとの「合同コンサート」の打ち合わせが大前提となっていました。(交通費だけでも往復すれば高校生には大きな出費でしたから…)
 

そんな秋のある日、堺ヤマハの例の大学生スタッフから私に電話がありました。
ここで詳しい事はお話できませんが、どうも「Gの企画案では無理がある」というのです。
そこでGの企画を排して、言いかえれば「G本人を排して」私が現在まとめている「高校生の団体」でコンサートをやれないだろうかと言うではありませんか。

私は心躍りました。

各校の代表にこの企画を提案して10カ月あまり。企画は全くと言っていいほど進行しておらず、私もいささか焦っていたのです。私は逸る心を抑えながら、この提案をひとまず受諾しました。
とうとう、私の夢想に近い企画が実現しようとしているのです。

案の定、後日このことを聞きつけたGから私に抗議の電話がありました。
電話の向こうから興奮したGの罵詈雑言が延々と続きました。いわゆる「脅し」のような発言もありました(笑)
例えれば、自分の付き合っている女性が紹介相手に気移りしたようなものです。
しかし、残念ながらと言うべきか、どこかでGには申し訳ないとは思いつつ、今の私には「合同コンサートの開催こそがすべて」で、その前にある壁がなんであろうとひたすら排除することしか考えませんでした。Gにすれば私の行動は「裏切り」以外のなにものでもなかったことでしょう。

しかし私はGからの抗議に耳を籍さず、すぐに堺ヤマハのスタッフと具体的な打ち合わせに入りました。
私は来年には3年生になりますから、この企画にはあまり参画できないだろうという自分の都合と、各団体に声をかけて長い間待たせてしまったことへの自責の念もあり、なんとか今年度中の開催を急いでいました。

そしてようやく企画がまとまり、翌年2月11日、堺市民会館大ホールで開催することが決まったのです。

(つづく)




【前回までのあらすじ】
「私」が一年生の秋。実質的にフォークソング部は「部員ひとり」となり、これが職員会議で問題となる。このクラブ存廃の危機は顧問の下郡先生の尽力で脱することができた。「私」は、クラブの活性化を目的とした「高校生の手による合同コンサート」を企画する


当時の高校生はとにかくお金がありません。
学校も臨時予算など出してくれるとは思えません。
とてもではないけれど外部でコンサートなど簡単に開催できる状況ではなかったのです。
 

「出演者ひとりにつきいくらかの参加費を徴収するか。いや、それでは参加者が減ると自動的に予算も減ることになる。決まった会場費や、その他経費を払うのにそれは無謀だ」

「入場料収入を見込むか。いや、学校単位で行うコンサートでそれ自体を学校は認めないだろう。そもそもアマチュアの高校生が予算に見合うだけの観客を動員できるか」

「スポンサーを見つけるか。でもどこが出資してくれるか」

 

さまざまに考えましたが良い知恵が出てきません。
各校代表ともずいぶん話し合いましたがなかなか打開策が出て来ないのです。
 

そんなある日、どこでどう聞きつけてきたのか、ある男が私にコンタクトをとってきたのです。・・・・と、書いた今、この瞬間、記憶が鮮明になりました(笑)
 

私は、初夏のある日、心斎橋のヤマハに出向きました。
アポなしで、この「合同コンサート」企画をヤマハの誰かに訴えようと思ったのです。
やっぱり高校生ですね~。やることが無謀です。
 

行くと、カウンターのところでヤマハの店員さんと若い男が何やら話しています。それは雑談のように思えたので、私は話に割り込み、用向きを伝えました。
するとその若い男が「自分もそういう企画をヤマハに持ち込んでいる」と言うではありませんか!
私たちはすぐにヤマハを出て近くの喫茶店で話すことにしました。
 

喫茶店でタバコをふかしながらその若い男(名前はもう忘れたので仮にGとしておきます)は、再度、自分がヤマハに持ち込んだ企画の内容を話します。それは私が考えていた内容とほぼ同じでした。そして、この企画からプロミュージシャンを発掘してとか、全国規模にしてというような気宇壮大な話をします。もちろんそれは発展的な話としてはいいでしょう。ところが、「企画をヤマハに売る」ということを力説するのです。Gは今でいうプランナー、企画会社の個人版のような人間でした。

しかし、一介の高校生に過ぎない私にGは頼もしく見えました。なにしろ大手楽器店であるYAMAHAとコネクションがあるようなのです。ただ、「売る」ということに対しては私の企画の主旨(あくまでアマチュアが主催する)に合わないので、以後、その点にだけは注意を払っていました。
 

Gとはその後も連絡を取り合い、彼が取りまとめているところの高校生たちとも会いました。ただ、彼らは良く言えば「大人」で、悪く言えば「胡散臭い」のです。
その高校生の中には帰国女子で、のちにアイドルとなって全国展開する女性もいました。彼女の名前は差しさわりがあるので出せません(笑)

すなわち、「プロを目指す私」が言うのは矛盾しているようですが、私の目に彼らは「まずは音楽を使ってメシのタネにすること」だけをもくろんでいる者達に思えたのです。

(つづく)




職員会議でどんなやりとりが交わされたかはもちろん不明でしたが、職員室から出てきた下郡先生は

「ひとまず休廃部は回避された」

と伝えてくださいました。
おそらく先生がいろいろと弁明してくださったのでしょう。
また、どの先生か忘れましたが、職員室から出てきて、私に「よかったな」と声をかけて下さった先生もいました。
去年のOB会を開催できたのも「クラブ」あればこそ、いわば下郡先生がいらっしゃったからこそだと思います。
改めて先生にお礼申し上げます <m(__)m>
ただ、この職員会議の結果を受けて、私はますます「合同コンサート」を実現させないといけないと強く思うようになりました。
そして、さらに頻繁に各参加校の代表(部長)に連絡を取り始めました。


さて、いよいよ4月。
地学教室には1クラス分に近い、30数名の新入部員が座っていました。
私はまるでクラス担任です(笑)


ひとまずこれでクラブとして存続できることは間違いないとは思うのですが、30数名もの部員をどうやって私ひとりでリードして行けばいいのか・・・。
私の期のように次々と退部させては元の木阿弥です。
あまり厳しく接してもまずいとは思われますが、だからと言って「趣味でいい」というあの時のDの発言に象徴される「仲良しのんびりクラブ」では、いま企画している「合同コンサート」の実現もあやうくなります。
なぜなら、合同コンサートに参加予定している団体のレベルの高さを私はすでに見ていたからなのです。
中でも生野工業高校のあるバンドはGAROのコピーでは圧倒的な実力を持っていました。
何しろ「(変則)Dチューニング」で演奏しているのです(笑)
ハーモニーも抜群でした。
以上の事から、「たったひとりの先輩」である私は、やはり後輩たちを厳しくリードすることを選択しました。
ただ、後記することになりますが、これが後輩たちとの軋轢を生む原因のひとつにはなったと思います。

※このあと、1年の時に同じグループメンバーだった工藤さんが再入部してくれ、それに続いてやはり同期の高岸さんが新たに入部してくれ、私とともに「The Menue(ザ・メニュー)」という名前でしばらく演奏活動しました。
特に工藤さんはクラブ運営においても協力してくれました。ありがとうネ!


さて、合同コンサートの事前準備として私は勝高で各校との「交流会」をやろうと考えました。もちろん下郡先生を通じて学校に許可を貰い、地学教室で互いの演奏を披露し合うというスタイルです。
まず招いたのは市立天王寺商業高校(現、大阪ビジネスフロンティア高校)です。
ここは大所帯で、実力も相当でした。

ところがこのとき、事件が起こりました。

天王寺商業のあるバンドが地学教室の教卓前で演奏中、勝高の1年生のある男子部員が何を思ったのかその前を平然と歩いて通り過ぎたのです。演奏していたバンドのメンバーの表情がこわばりました。
私も凍りついてしまいました。

あとの交流会で私が天王寺商業の部員達から糾弾されたのは言うまでもありません。
私も陳謝しましたが、当然のことながら先方は相当に憤慨していました。
彼らは「合同コンサートに不参加の可能性」まで口にしていたのですから。
このことがあってから他校を招いて交流会をするのはやめることにしました。
同時に私は後輩たちをますます厳しくリードしなければならないと思うようになってしまったのです。

(つづく)




年が明けても、私は地学教室でほとんど練習らしい練習をしていませんでした。
ギターを机に置き、椅子に座って、なぜこんな事態になったのかということと、その打開策ばかり考えていたのです。
 

そんなある日、22期の谷村さんがクラブを訪ねて来てくれたことがあるとわかりました。やはり今回のOB会がきっかけで再会したおり、ご本人が私にそうおっしゃったのです。
ご本人の話によると、谷村さんが地学教室に行くと私一人で練習していたので事情を聞いたら「誰も来ないんです」と私は答えたらしいです。
言われてみればそんなことがあったようにも思います(笑)
 

カルティベート・コンサートという「部の定期コンサート」は谷村さんの企画立案であることは先述しました。
やはり「文化祭以外」での発表の場、研修の場を作ろうとお考えになったのでしょう。
そういうことが私にも影響を与えました。
 

当時、日本の「フォークソング」は初期の「反戦・社会問題」から「若者の日常」を歌うことに質的変化を見せていました。(若者の日常と言うたら日本では「恋愛」しかありませんな・・・ははは)
しかし、やはり学校や世間では「フォークソング」や「ロック」というのは「反体制を主旨とした教育上よろしくない音楽」というレッテルを貼られていたのでしょう。
私など公園でギターケースのふたを開けただけで警官に取り囲まれ、威圧的な職務質問を受けた事もある時代でした。
なかなか学校内で「クラブ活動としての市民権」を得られていませんでした。
活動費もあまり学校から出ません。音響機材などはとてもではありませんが買えませんでした。これは私どものクラブでも同じです。
中にはいつまで経っても予算が全然貰えない「同好会」としてしか認められていない団体もありました。
また、私たちアマチュアには外に向かって発信する場、つまりコンサートなどもあまり開催されていなかったのです。大手楽器店や放送局が開催するコンテストのようなものはありましたが、あれはやはり商業的で、私たちのようなアマチュア高校生が「クラブ活動」として学校の許可を得てオープンに参加するものでもないでしょう。
 

そこで私は考えました。

「大阪のそういう高校のクラブや同好会に呼びかけて、合同で大きなコンサートをやったらどうか・・・・・」

私は電話帳をめくって公私問わず、いろいろな高校のクラブ、同好会に主旨を書いた手紙を送り始めました。50通くらい送ったような記憶があります。
時には口先が達者なのをいいことに他校に直接電話もかけました(笑)
「そんな大きなイベントをやれば勝高の部員のモチベーションを上げることにつながり、クラブも活性化するかも知れない。予算ももっと貰えるかも知れない」と思っていたのです。

やがて各団体から徐々に反響も出て来ました。
そこで、まずは3月までに参加校をまとめようと考えていました。
4月になれば新入生も入ってくるだろうし、先輩たちもひょっとしたらまたクラブに来るかも知れない。そうなればクラブ全体でこのイベントを作っていけると思ったのです。

そんなある日、私は顧問の下郡先生に呼ばれました。
実質私一人でクラブ活動をしていることが問題視され、次の職員会議で議題にあがるというのです。
さらに、「現状のままでは休部か廃部になる」と言うではありませんか。
窮地に立たされました。

(つづく)




【前回までのあらすじ】
勝山高校に入学してすぐに「私」はフォークソング部に入部する。しかし、お仕着せで組んだバンドのメンバーの一部が「プロ」を目指しそうにないと感じた「私」はソロ活動に転じた。しかしその後、同期生たちは次々と退部した。入学半年後の秋、1年生部員は「私」ひとりになってしまう。

秋の文化祭は2日間です。
私たちフォークソング部のコンサートは、視聴覚教室で行う日と講堂(体育館)で行う日にわかれていました。
3年生はこの文化祭で「引退」ということになるので、両日出演しますが、1年生は視聴覚教室だけに出演します。
例によって私はこの「文化祭」のことを覚えていません(笑)
ただ、ソロで出演した記憶がおぼろげにあります。
なぜなら1年生は私だけなので、半自動的に出演できたはずなのです。

そして、いわゆる新「部長」もこの文化祭後に決めます。
これには私が必然的に就任しました。なにしろ一人なのですから・・・。
つまり私たちのクラブの「部長」と言うのは「1年生の秋から2年生の秋までの1年間」ということになります。
ところが、この文化祭以降、異変が起きます。

3年生は「引退」したので基本的にクラブ活動に来ることはありません。
ところが2年生までも活動する人が徐々に減ってきたのです。
確か11月には、地学教室でギターを弾いているのは私一人になっていたと思います。

放課後、一人で地学教室に来て、一人で練習し、一人で施錠して帰るという日々でした。
部長だし、ソロだから、まあそれでもいいんですけど(笑)
でも、毎日「一人クラブ活動」というのはきついものがありました。
これ・・・吹奏楽部とか団体スポーツだったら過酷でしょうねぇ・・・。私は恵まれていましたね・・・。

新年度が始まるまであと4カ月。
長期休暇もあるので実質的には2カ月ほどですが、果たして新入生から入部者がいるかどうかも覚束ない状態で、しかもこのままではそれまでクラブが存在しているかどうかも微妙です。
私はかなり滅入っていました。

そんなある日、地学教室に置いてもらっているクラブ専用のスチール戸棚から私はある書類を取り出しました。
以前からときどき目を通していた小さな手書きのノートです。
ページの最後には今年引退した3年生の連絡先データが誰かの手によってすでに書かれています。
さらに遡ってページをめくると、その前年に卒業したOBの連絡先。そして、そのデータはクラブの創立メンバーである20期、21期の当時の連絡先から始まっていたのでした。
まるで家系図のようなそれらを改めて見て、私は今この教室にいることの不思議に打たれました。

20期、21期の人たちがクラブを作った苦労を偲び、そのあとを受けてクラブを維持し、発展させようと努力してきた先輩達に思いを馳せると、なぜか泣けてきました(笑)

私はこの人たちに報いるためにも絶対に自分の期でクラブを失くしてはならないと誓いながら、地学教室を施錠して帰りました。
(つづく)




「このクラスにイワツル言うのおるか?」
 

突然、教室にやって来た男達が挑みかかるような大声を上げました。
私は何も後ろめたいことがないので、「わてでっけど?」と名乗りました。
 

「お前、サッカー部やってんてな?」
 

最初の男が切りだしました。口調から判断すると、2年生以上のサッカー部員なのでしょう。
私はこの言葉を聞いて「ははぁ・・・サッカー部に勧誘に来たな・・・」と思いました。(中2病の症状です)
もちろん私は肯定しました。すると驚いたことに!
 

「お前、俺らがヘタやって言うたらしいな!」
 

と恫喝するのです。

いくらなんでもそんなヒドイこと・・・・・・・・・・・・言いました。
いつだったか地学教室の窓からグラウンドを見下ろしてサッカー部の練習を見ていた時です。あまりにヘタだったので笑うと、私の横に部長である2年生のMさんが来て、「何を笑っているの」と尋ねたのです。
Mさんは美人で、しかもギターも歌も出来る人です。
そこで私は「うちのサッカー部はヘタですな~」と正直に言ってしまっていたのです。


「どういうつもりやねん!!」
 

とさらに猛々しく怒鳴ります。やっぱり怒っていたのですな(笑)
するとその肩を押さえて、一人の、割とかっこいい男性が
 

「まあまあエエがな。ところで・・・」
 

と私に向き直り、
 

「お前、どれくらいできるんや?」
 

と言います。
ここで私の中2病が恐ろしい一言を発しました。
 

「たぶん・・・先輩達よりはできます」  ←でも、これは本心ww

「そしたらグラウンドに来て、見せてくれや」
 

ヤベェ!!!!
「これを口実にこいつらは俺を寄ってたかって袋叩きにするつもりやゾ」
と思いました。
でも、サッカー以上に口が達者だった私は即座にこう弁解しました。
 

「行きたいのはやまやまですが、心臓が悪くてもう動けません。診断書もあります」
 

すると・・・
 

「そうか・・・。それやったらもうええけど・・・。あんまり余計なことは言わんようにせえよ」
 

そしてサッカー部員たちは教室を出て行きました。
私は理路整然と見事に虎口を脱したのであります。
舌先三寸、口から生んでくれてアリガトウ、お母ちゃん!
(どんな母親やねん・・・・)
 

その日の放課後、誰か忘れましたが、フォークのある2年生の女性先輩が「サッカー部が訪ねて来たか」と私に訊くので事の顛末を話しました。
その先輩の話によると、どうやらうちのクラブの部長のMさんは、サッカー部の部長のKさん、あの「割とかっこいい男性」とお付き合いがあったらしいのです(笑)
私の漏らした「ヘタ」の一言をMさんがKさんに告げたのでしょう。
 

このことがあってからしばらく私は「口は災いのもと」という言葉を胸に、3日ほどだけあまり余計なことをしゃべりませんでした。
それ以来、今日まで余計なことしか言っておりません(笑)
 

※ちなみに勝高サッカー部はその昔、全日本代表GKの一人である浜崎さんを輩出している名門だったのは事実です。
 

(つづく)




【前回までのあらすじ】
中学の担任の口車に乗せられた「学年成績3番」の「私」は、偏差値が急降下中の大阪府立勝山高等学校に入学する。
心臓疾患の持病があった「私」は、中学までやっていたサッカーおよびサッカー部入部をあきらめて、プロミュージシャンへの道を歩もうとする「中2病患者」でもあった。


 

地学教室に入るとドアに一番近いところでウッドベースを弾いている人がいました。
首の付け根くらいまでの長髪で、うっすらとヒゲを生やしています。
挨拶をするとギロリと横目で私を睨むだけで、ろくに挨拶も返さないのです。
 

高校での1年間の違いはとても大きく、先輩はみな「大人」に見えたものですね。
 

あとでわかることですが、ベースを弾いていたのは3年のO塚さんでした。
O塚さんとは、これも不思議な縁で、私の卒業後、一緒にバンドをやることになります。O塚さんがろくに挨拶も返さなかったのは単にシャイだったということがのちにわかりましたww
 

どんなやり取りが交わされたのかは忘れましたが、その後対応してくれた2年の先輩と話して、すぐ入部することになりました。

確か、活動日は月水金の放課後ではなかったかと思います。あれ? 火木だったかな? いや、月火木金だったような・・・・。こんなことも忘れています。

そしてギターはその都度家に持って帰るようにと・・・。
これは自宅で練習をするためです。
私は「あの満員の臨時市バス」で毎日ギターケースを持って往還することを思い、うんざりしました。
が、プロミュージシャンになるためです。がまんしなければ。

学校の勉強について行けそうにない私は、こうしてやっと居場所を見つけました。
 

クラブはたいそうにぎやかで、3年生は男性だけで5人(これも相当後でわかるのですが、女性も3人ほど在籍していたのだそうです)、2年生は男性が3人、女性は7~8人いました。
そして私たち1年生が男性6~7人、女性が4人ほどだったように思います。
総勢30名くらいでした。 (記憶があいまいなもので・・・)
 

最初のころの練習はいわゆる「発声訓練」と言って、ギターに合わせてひたすら大きな声で「あ”~~~~」と言っているだけです。今から思えばむちゃくちゃな訓練でした(笑)
 

そしてすぐに先輩たちの指名でバンド(当時はグループと言っていました)を組むことになるのです。
実は私はその「最初のバンド」を覚えていませんでしたが、OB会で再会した工藤さんと前田さんから話を聞き、そしてこの原稿を書いていて徐々に記憶が甦って来ました。
このバンドについては後日、詳しく話します。
 

さて、バンドには「課題曲」というのが割り振られ、私たちはPP&Mの「The cruel war(悲惨な戦争)」を与えられました。えらいものでこの曲はいまだに弾けます(笑)
別に1曲、「自由曲」を決めることができました。
私たちのバンドには女性が二人いたので、赤い鳥の「誰のために」をやろうと私が提案してそれに決まりました。
 

これらの曲の出来によって、6月に開催している定期コンサート「カルティベートコンサート」に出演できるかどうかが決まります。
そのオーディションまでの2カ月あまり、必死で練習していた私たちでしたが、ある日、私の身にちょっと厄介な出来事が起こりました。
 

私の教室にサッカー部員たちがやって来たのです。
 

(つづく)




無事に勝山高校に入学した私でしたが、予想に反して勉強について行くのがやっとでした。
中学では学年3番だった私がです。私のプライドは引き裂かれそうでした。
どの教科も中学のレベルではついていけそうにないその高度な内容に驚き、とうとう同級生にそのことを尋ねましたら、やはり皆「ついていけるかどうか自信がない」というのです。
私は「自分だけではなかった」と密かに安心しました。
(このあたりの文体は夏目漱石「こころ」を彷彿させます。あれ? 私、いまだ「中2病」が完治していないようですね)
 

※ちなみに中学の担任Sが言っていた「勝高専用のスクールバス」というのは「大阪市営バスの臨時便(朝の登校時間帯だけ運行)」のことでした。だまされました。
 

私の教室はグラウンドに面した南館校舎の4階の西側にありましたので、放課後、その廊下の東端にある「地学教室」付近でギターを弾いている人たちがいるのを知っていました。
 

サッカーでのオリンピック出場を断念せざるを得なくなっていた私は、こんどはプロミュージシャンを目指そうと思っていたのです。やはり中2病でした。
 

幸い、やはり「中2」のころからギターを弾いていました。
きっかけは「MBS 歌え!ヤングタウン」という深夜ラジオ番組です。
このブログでも「ヤンタン」が話題に出ていましたね。
 

その番組で流れていた「今月の歌」がウッディ・ウーの「今はもうだれも」です。
12弦ギターのきらびやかな音と、エレキベースのうなるようなフレーズ、高音の歌声・・・魅了されました。
もちろん自分でもこの歌を練習したのは言うまでもありません。

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ギターはナンバの・・・確か・・・ナカイ楽器で買ったのではなかったかと思います。
今もある梅田ナカイ楽器のご本家が経営なさっていたような気が・・・・ああ・・・もう記憶が曖昧です。
ともかくその楽器屋さんで、お年玉で買えたのがYAMAHAのFG150というお尻の丸い、セミオーディトリアムタイプのギターでした。(23期の福山さんと同じギターだったのですね)

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←FG150です。ウィキペディアより拝借








さて話は少し変わりますが、当時、「ヤンタン」を始め、若い人たちの間ではラジオの深夜放送が大人気でした。
 

■「ABCヤングリクエスト」
 私は中3のとき、この番組の「心の旅‐遠くに行きたい‐」に投稿して採用されました。私の投稿はこの番組で初めて「ラジオドラマ」になったのです。さらに、そのときのナレーターさんは、やがて私が入団することになる劇団の俳優でした。また高校から大学にかけては、何度か「ミキサー完備スタジオ貸します」に出ました。そして後年、私はこの放送局でラジオドラマの演出をすることになったのです(笑)
今はここでラジオCMのナレーションをやることもあります(笑)
人生は不思議ですね~。
 

■「チャチャヤング」(Chat,chatという意味だそうです。チャットですね!)
ヤンタンの後に放送されていました。ザ・ムッシュという男性3人のバンドがパーソナリティで出演していて、このバンドのメンバーとは勝山高校時代にお近づきになりました。あろうことかこのバンドの税金の申告相談まで私の親が引き受けることになったのです(笑)
 

■「OBC Hatでヤンヤン」
大国町トミヤマのビルの特設スタジオで公開生放送していました。だからこれは夕方の放送ですね。パーソナリティは尾崎千秋さん。実はこの人とも30年の時を経てお近づきになりました。人間、ちょっと長く生きるといろいろな知人が増えますね~。余談ながらOB会を通じて「あの伝説の番組ディレクター」ともお近づきになれました(笑)

 

やがてある日、私は自分のFG150を、高校生でもあまり持っていないハードケースに入れて、鼻息荒く地学教室に向かったのです。ふんっっっ!
 

(つづく)




HN:
26期部長岩鶴
HP:
性別:
男性
職業:
幹事
趣味:
OB会開催
自己紹介:
大阪府立,勝山,高校,フォーク,ソング,部,クラブ,OB,会,同窓会
[01/19 武藤 昇]
[10/27 福山隆司]
[06/17 山縣慎司]
[06/02 伊福部 茂]
[04/15 伊福部 茂]
[01/05 山縣慎司]
[11/26 芳本 博昭]
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