谷村新司さんは当時からラジオパーソナリティとしてもシンガーとしても大人気で、いまや超メジャーですね!
アリスを結成なさってすぐのころ、大阪府立青少年会館にアリスが出演することがあって、私は楽屋を訪ねました。谷村さんがひとときソロ活動をなさっていたころにお近づきになることがあって、このときも事前に谷村さんに電話をして(昔はそんなことが可能だった!)、お会いしたい旨を伝えておいたのです。
谷村さんは快く「楽屋においで」とお招きくださいました。
私は、そのとき、かつて谷村さんがソロで歌っていらした「アディオス」という曲について「E#」というコードを教えていただきました。
「E#? それって、Fじゃないんですか?」
と私が尋ねますと、
「いや、Eを押さえたまま1フレット分スライドするねん。フラメンコみたいやろ?」
とお答えになりました。
そして、「やってみようか?」と演奏を始められたのです。
私はあわてて「録音していいですか?」と許可をもらって、持参していたSONYの小型のテープレコーダーを回しました。
谷村さんの「アディオス」が始まると、横にいらっしゃった堀内孝雄さんがアドリブでオブリガードを入れ始めたではありませんか?!
「プロというのはすごいものだ」と感心したのは言うまでもありません。
谷村さんのGIBSON DOVE(ナチュラル)と、堀内さんのGIBSON J-45(サンバースト)が奏でる演奏は素晴らしいものでした。カッコ良かったなぁ~!
あれをライブで、目の前で、半径1メートル以内で、しかもリクエストに応えてもらって、私のために演奏してもらえるとは、なんと私は果報者でしょう(笑)
それ以降、私はレパートリーのひとつとして「アディオス」を何回か歌いましたが、谷村さんは高校生の私などにもちゃんと接してくださる立派なかたでした(笑)
さすがにこれはYouTubeにアップしているかたがいらっしゃいますね。
こういうの…著作権は大丈夫なのでしょうか?(笑)
あ……考えたら私がアップしている「今月の歌」の楽譜も……(笑)
当時のフォークグループの人たちは有名無名にかかわらず、皆さんどなたも高校生の私に快く接してくださいましたね~。
この歌のレコード(もちろん45回転シングル)を持っていたように思うのですが、見当たりません。YouTubeなどにあるかな~と思って検索しましたがありませんでした。
確かこの歌もハーモニーがきれいだったように覚えています。
60~70年代のフォークソングはハーモニーがきれいでしたね~。
私ども勝山高校フォークソングクラブでも先輩がうるさかったのはチューニングとハーモニーでした(笑)
私はそれらよりも曲の合間に入れる「スピーチ」に注力しておりましたが(笑)
最近、電子チューナーという便利なものができて、チューニングも視覚化されるようになりましたが、「音感を鍛える」という観点ではどうなのでしょう?
やはり音叉などでチューニングするほうが音感力をアップさせるにはいいのでしょうか?
趣味でバンド活動をなさっているかたに是非歌ってほしい曲です。
中学2年生の5月、サッカー部の仲間がこんなことを訊いてきました。
「やんたん…」なんのことやらわかりません。
仲間が言うにはMBSラジオの深夜放送だとのこと。
「おもろいから聴いてみ」
と勧められて、ラジオのスイッチをひねると…
♪シャンシャン、シャシャッ、シャ~ン、シャシャシャシャシャシャ…
ブ~~ン、ブ~ンブブ~ン…
12弦ギターのきらびやかな音色に続いて、唸るようなエレキベースの音が…
そして聴いたこともない伸びやかな高音の歌声がっ!
のちにアリスがカバーして大ヒットした「今はもうだれも」のオリジナルである、ウッディ・ウーの演奏です。
「うぉぉぉぉ、くゎっこエエ!!!!!!」
2012年9月23日の記事「YAMAHA FG150を手に・・・」にも掲載していますが、この曲をきっかけに私はギターを弾きはじめました。
サッカーとギターで忙しく、勉強どころではなくなったのです(汗)
「ヤンタン(歌え! MBSヤングタウン)」には私どもの21期生OBのバンド「JUNK MEN」も出演したそうです。
また、毎月、アマチュア、セミプロのバンドの演奏を「今月の歌」と称して1ヶ月間の放送中、毎日流していました。そして、返信用の切手を添えて申し込むとその歌の楽譜を送ってくれたのです。
私は早速申し込みました。するとちゃんと送られてきたのがこれでございます。
もう薄汚れて、ボロボロになっています。
スキャンしてきれいにしたものを下に掲載しました。
「YAMAHA FG150を手に・・・」という記事にもこの楽譜をアップしていますが、実はほかにも数曲、オリジナルの楽譜がありますので、これから随時アップします。
当時を懐かしんでくださるかたがいらっしゃれば幸いです。
旅行とアルバイトです。
旅をするのが好きで、高校時代に行ったところは
学校行事で1年生の夏休みに“信州”
そして、2年生だか3年生の時の修学旅行で“九州”。
個人的には、
“奈良”“小豆島”“四国”“金沢”“北海道”に行きました。
“奈良”は一泊でした。
“小豆島”2泊で、“四国”は約1週間かけて一周。“金沢”は4泊。
そして“北海道”は、夏休みに2週間ほどかけて旅してきました。
アルバイトは、その旅行資金調達のためです。
2年生の春休みに四国に行ったときは、1年生の冬休みにアルバイト。
3年生の夏休みの北海道旅行の前は、春休みにアルバイトです。
1年生の冬休みにしたアルバイトは、クリスマスケーキ作りでした。
場所はどこだか忘れてしまったのですが、体中バニラの香りでいっぱいでした。
3年生の春休みにしたアルバイトはガソリンスタンド。
これは今でもはっきり場所を覚えています。
寺田町の交差点にあるガソリンスタンドでした。
天王寺からバスで学校に通っていたのですが、
そのバス通り沿いにあるガソリンスタンドでした。
(まだあるのかな?)
北海道に行くのには、6月ぐらいから天王寺の交通公社に通い、
フリーの周遊券作りで結構忙しかったです。
と、同時にユースホステルに宿泊の申し込みをどんどん出すのですが、
半分以上は満室でNGの返事です。
ラッキーにもOKの返事が来たら、
また、ルート変更で交通公社通いでした。
ねっ、忙しいでしょう?
勉強をしたり、フォークソングを歌っている暇なんてないでしょう?(笑)
それぞれどういう旅だったかは、またの機会に。
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寺田町交差点のガソリンスタンド・・・・・
ああ~、つい先ごろまで営業していましたが、現在はセブンイレブンになっています。
残念ですね・・・・・。
私も高校時代にアルバイトをしましたが、なんと・・・・「中学生の家庭教師」(笑)
私、教えるのうまかったんですよヨ(笑)
どういうわけか、僕は1年生の春からコーラス部に所属していました。
フォークソングをやる前です。
どういうきっかけで入ったのかは全然覚えていませんが、いつの間にかコーラス部員でした。
夏休みは、NHKの合唱コンクールや朝日コンクール(?)などの 大阪予選に出るために、なんだか一生懸命歌っていたのを覚えています。 夏休みも返上で、登校していました。
結果は、常に"奨励賞"でした。要するに"参加賞"です。
文化祭にも2年連続で出ましたね。
オペレッタ『影をなくした男』と、『真間の手児奈(てこな)』という作品だったと思います。
たぶん1年生の時に視聴覚教室で『真間の・・・』をやり、 2年生の文化祭で『影を…』を体育館(講堂?)で上演したと思います。 学校の記録でも、新校舎初めての文化祭は我々が2年生の時ですから、 1年生の時の『真間の・・・』は、自主公演だったのかもしれません。
2年生になると、どういうわけか部長になっていました。
これははおそらく文化祭の日です。
とすれば、フォークで出演した同じ日でしょうか(笑)。
因みに私は、最前列のセンターで可愛く映っております。 一応、部長ですから真ん中で偉そうにしているのでしょうか?
うん、可愛い。モテるはずだ(笑)
フォークのクラブ作りで忙しくしていたにも拘らず、 片一方ではコーラスもやっていたんですね。
ねっ、勉強なんかする暇がないぐらい忙しいでしょ?
実は他にもまだまだ忙しい事があったのですが、 それは次回。
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これも勝高名物、4階の空中渡り廊下での撮影ですね。
まあ・・・賢そうな美男美女の集まりですね~。
おもしろいことに男子部員は山縣さんを除いて皆うしろにいて、女性部員が山縣さんを囲んでいます。(笑)
山縣さんはいわゆるハーレム・キングですね?
お~い、柔道部と野球部は4階の渡り廊下に急行せよ!!
「二度と連絡して来ないで!」
昨年のOB会の準備中、あるOBから電話でそう言われました。
ほかにもさまざまな理由で参加はもちろん、連絡もお断りになるOBがいらっしゃいました。また、お亡くなりのOBもいらっしゃったのは皆さん御周知のことです。
そのたびにくじけそうになりましたが、応援してくださる先輩方、協力してくれる人が多くいてくださり、なんとか私も6月4日のOB会開催にたどりついたような次第です。
しかし、あの折、望まれていないことを知らずに連絡を差し上げてしまったOBおよびそのご関係者には不愉快な思いもさせてしまいました。
改めて心からお詫び申し上げます。
人間は今にも切れそうな細い細い糸で互いにつながっているのかも知れません。
今いる環境も考え方も感じ方もそれぞれに、しかも、その瞬間ごとに違います。
ほんのささいな一言でその糸は簡単に切れてしまったり、逆に少しだけ太くなったように見えます。(ただ、いくら太くなっても切れる時は切れてしまいます)
自らの意思でそのか細い糸を切る
互いの努力と理解でいったん切れた糸をつなぐ
つながっているのにその糸がみえない
ある日、誰かとつながっている糸が見える
さまざまな状況がありますね。
でも「思い出という糸」は、苦くも甘くもずっと自分の過去とつながったままです。
今回、私は自分の「高校時代の思い出の糸」を手繰ってみました。
クラブでの3年間は、残念ながら私にとって苦しいことのほうが多かったような気がしますが、それも今となっては自身の成長にとって貴重な時間だったように思えます。
残念ながら、ちっとも成長していませんが・・・(笑)
長くてもたった3年という高校のクラブ活動。
そこで苦楽をともにした「思い出の糸」を大切にしたいと思います。
大変長い、しかも、どうでもいい私個人の「懺悔と言い訳」の連載をしてしまい、申し訳ありませんでした。
その数、なんと17回っ!!
今回を入れたら18回っっ!!!
ブログの私物化でした。
また後輩に怒られそうです(笑)
それにしても・・・今はいい時代だと言えますね~~!!
こうして一方的ながらブログで「お礼」も「お詫び」も言えますし、懺悔も回想も広く語ることができます。本当にありがたいことです(笑)
人間、死に臨んだとき、誰にも何も言えないというのは辛く、孤独な事でしょう。
「ああ、あの人にもう一度会ってお礼を言いたかった…」
「あの人にひと言お詫びを言うこともできないのか…」
そう思いながら身を病院のベッドにひとり横たえ、虚空を見つめているのは遣る瀬無く、淋しいですよね~。
私はいい時代に生きていたと思います。
これに懲りず、ぜひこれからもこのブログとお付き合いください。
皆さんからの投稿、コメントをお待ち申し上げております!<m(__)m>
26期■岩鶴恒義
6月10日、初夏のさわやかな青空が広がっていました。
朝早くから三木楽器さんがトラックでPA機材を運びこんで仕込んでくれました。
野音ですからかなりの量の機材です。
まるで「春一番コンサート」みたいでした(笑)
出演校もつぎつぎに会場入りして来ました。
「楽屋」といってもあそこには大きな部屋しかありませんので全校まとめて入ってもらいました。あとから出演する高校には外で待機およびチューニングなどをしてもらいました。今更ですが、改めてお詫び申し上げます。ただ、小さな個室がひとつあったので、それは女性の更衣室にしたような記憶があります。
でも・・・・例によってコンサートそのものについてはあまり記憶がありません(笑)
どんな風に始まって、どんな風に進行して、どんな風に終了したのでしょう・・・。
さっぱりおぼえていません。
ただ、大きな事故やもめごともなく・・・・心配した動員も常に会場は6~7割くらいの人で埋まっていたように思います。
T記者も会場に来てくださっていたように思いますし、私どものクラブのOBも何人かお越しくださっていたように思います。会場の外にタコ焼き屋さんとか、アイスクリン屋さんの屋台が出ていたようにも思います(笑)
ひとまず私は1年生のときに発案したコンサートを、厳密に言えば高校時代に2回も開催することができました。
多くの人たちの多大なご協力あったればこそです。
クラブを作り、それを継続・発展させようと努力してくださった先輩方
部の存廃の危機を救ってくださった下郡先生および勝山高校の先生方
私の呼びかけに応じてくれた各校の部員およびその代表者
結果的に堺ヤマハと私を結びつけてくれたG氏(ちょっと胡散臭かったけど・・)
堺ヤマハとその大学生スタッフ
ザ・ムッシュのメンバーとその所属プロダクションのマネージャー
高校生ばかりのコンサートに快く出演してくれたアリスの皆さん
とんでもない要求をしたにも拘わらず協力してくださった三木楽器とそのスタッフさん
後輩の前で私の弁護までしてくださったサンケイ新聞のT記者
そして反発しながらも私について来てくれたクラブの後輩達・・・・
彼らのお陰でこの「マリパク」(合同コンサート)も、そして私たち「フォークソング部」も、以後10数年続きました。
人間は非力で愚かで、一人では何もできません。
しかし人間は決して一人きりではない。
必ずそばに寄り添ってくれる人間はいるのだと信じたい。
そして、たとえ諍いがあったとしても、いつの日か解り合えるものだということも。
私は昨年のOB会でもそれを感じました。
多くの人々の努力と協力と熱意で事は成し遂げられるのだと思います。
改めて、私に関わってくださった多くのかたに心からの感謝を!
余談ですが、私が「引退」するこの年の秋の文化祭では、同期の工藤さんが私の演奏に合わせてピアノを弾いてくれました。この日のために組んだ2人だけのバンドです。
2日目の講堂(体育館)での私の持ち時間はもともと20分だったのですが、前の出演バンドがそれぞれ早く終わっており、累積で40分もあったので、「よっしゃ!」とばかりに私は予定にない曲も演奏して目いっぱい40分使いました。
演奏が終わって舞台袖に入ると2年生の女子部員に
「いつまでやってるんですか!
勝手なことは止めてください!
決まった時間を守るの当たり前でしょう!」
と叱られました(笑)
3年の文化祭初日。視聴覚教室です。
このギター(Chaki W-3)は、野音のコンサートのために売られそこなったもの(笑)
でも、このギターは現在、弦は張られていませんが、私の横で静かに眠っています。
この翌日の講堂で後輩に叱られます(笑)
そんなことも知らず、ご満悦で演奏している私。愚かです。
(おわり)
【前回までのあらすじ】
アリスをゲストに迎えて開催したコンサートは堺市民会館に2,000人の観客を集め、ひとまず打ち上げることができた。しかし、「純粋な意味でのアマチュアコンサートとは言えない」と感じていた私は改めて「第1回コンサート」を開催しようと画策する。
演出と言えばそうではあるのですが、部員達には練習している構図を作ってもらいT記者にその風景を撮影してもらいました。
撮影後、T記者にも参加してもらって、改めて今度のコンサートの企画主旨を後輩達に説明しました。
ところがです・・・。
どこからどう情報を聞きつけていたのか、いつぞや私が堺ヤマハからもらった「経費の5万円」が後輩達から「後輩やクラブを利用して金儲けをした」と糾弾されることになってしまったのです。
もちろん私はそれについて「私が個人で使った様々な経費を一部負担してもらったのだ」と釈明しましたが、後輩たちは納得しません。
「すった」と言えば「もんだ」と返答するし、
「なんの」と返すと「かんの」という意見もあり、
「どうたら」と説明したら「こうたら」と反論が出、
「ああ」言えば「こう」言うというような状態です。
簡単に言うと平行線ですね(笑)
それに「多勢に無勢」・・・あはは。
そして何より…「感情の前では論理は無力」です(^_^;)
後輩たちの急先鋒グループは「出演しない」とまで言いました。
後輩たちは、私が1年前に心斎橋ヤマハで出会ったあの「G」という人物を知りません。
しかし、おそらく後輩たちは、あのとき私がGに感じたのと同じ不信を私に対して持ったのでしょう。
今から思えば堺ヤマハからお金を受け取らなければ良かったのですが、私も親に無心を言って家のお金を使っていた後ろめたさがありました。
後輩たちの非難は、果てはT記者にもその矛先が向かってしまいました。
「高校生の純粋な活動をメシのタネにしようとするマスコミの手先」と言って非難し始めたのです。
これはいけません。いずれにしてもT記者はお客様です。
しかし、幸いなことにT記者は当然「大人」でした。
後輩達にもわかるように「社会というものは・・・」と説いてくれ、果ては私の弁護もしてくださいましたが、後輩たちは納得しませんでした。
後輩たちにもさまざまな思いがあったのでしょう。私への不満も鬱積していたのかも知れません。
と言うのは、私はほとんど一人で後輩達と接しなければならなかったので、時には後輩をきつく叱責もしていました。事を運ぶにも独断専行的な部分も多くあったあろうと思います。
しかし、「自分のためだけに」何かをしたというのは、あの1年時の「解散」以来、していないつもりでしたし、あの事は自分の反省材料にしていたつもりだったのですが反省が足りなかったようです。
それにしても、人間というものは「悪い話」や「悪い想像」は信じるものです。
私は後輩たちの間ではずいぶん「悪玉」になっていたのでしょうネ(笑)
気の短い私にしては相当に粘り強く説明したつもりですが、とうとう私は「それほど言うならもう出なくていい。今回は私一人が勝山の部員として出演する」と言いました。
ところが、その後、私を糾弾せず黙していた何人かの部員が「出演したい」と言ってきたので、私はそれを承諾しました。
ただ、心配だったのは、いわゆる「出演拒否のタカ派の部員」と、これら出演する部員との間に溝ができないかということです。この心配が、その後どうなったかは今は知る由もありません。
ともかく、出演者の数はその後も増え、結局、出演する後輩たちで勝山の持ち時間がいっぱいになり、私は今回も制作側スタッフとして動くことに専念することにしました。(今回は出るつもりやってんけどなぁ・・・)
本番は6月10日(土)11時から「天王寺野外音楽堂」で開催です。
当日は晴れますように・・・・・・・それだけがシンパイ・・・。
(つづく)
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その時の新聞記事です。
各校の加盟の順番が少し違いますが、まあ文脈上の都合でしょう。
真っ赤なウソは書いてありません。
でも、いささか私のコメントが「しっかり」「カッコよく」書かれすぎ(笑)
え? 私の姿? 写っているはずないでしょう!
これもねぇ~「売名行為」と言われましたなぁ(笑)
あ・・・・他校からも・・・・(T_T)
「天王寺野外音楽堂」は高校生の私が個人でも借りられるくらいの料金でした。
もちろんいくら安いとはいえ、自分のギターが売れなかった私は親に無心して出してもらうのでしたが・・・(笑)
しかも、大量のPA機材と音響スタッフを提供してくださるにも拘わらず、三木楽器さんは「宣伝なし」を了承してくれましたので、「スポンサーなし」というコンセプトも実現できました。
また、前回のコンサートでは、安いとは言え入場料を徴収したので、学校側にその条件を了解してもらうのが各校でも大変でした。「入場料」をとるという行為そのものが「部活動のコンセプト上で」いささか問題視されていたのです。
しかし今回、私個人は若干の赤字を抱えますが、「入場料なし」のコンセプトも実現できます。
問題は「ゲストなし」です。
やはり高校生の動員力では「天王寺野音」を埋めることは相当に困難でしょう。
私は少しでも多く動員するためにマスコミの力を借りようと思いました。
当時、サンケイ新聞の文化欄には「ヤング」というコーナーがありました。
若い人たちのさまざまな活動や行事を取り上げてくれていたのです。
私はサンケイ新聞あてに取材をしてくださるようにお願いしました。
するとほどなく記者のかた‐失礼ながらもうお名前も失念してしまいましたので、仮にT記者としておきます‐から連絡があり、私たちはナンバの「大劇通り」‐なつかしい響きですが、今もそう呼ぶのでしょうか‐にある喫茶店でお会いしました。そこで、
企画を発案した1年生の1月からのこと
1年後、堺ヤマハの協力で2月11日にコンサートを開催できたこと
アマチュアのコンセプトで再度コンサートを開きたいこと
これまでの過程や自分の思いを私はT記者に話しました。
その結果、5月28日(月)付けの「ヤング」欄で紹介してくださることになったのです。
またT記者は記事をまとめるために勝山高校までお越しくださり、クラブ活動中の様子を撮影したいともおっしゃってくださいました。
ただ、その瞬間「記事になって、勝山の写真だけが掲載されると他校はどう思うか」という不安がありました。私は他校への配慮も必要だとは思いながら、「宣伝材料」としての記事のために、やはり勝山高校に許可をもらい、そして、T記者が来校する旨を部員達に告げました。
同時に他校の代表にも「勝高の部活動の写真が新聞に掲載されるが、宣伝のためなので了解してほしい」と事後承諾を求めました。
幸い、他校の代表はこれを快諾してくれました。
(つづく)
「マリリン・パクパク・フォークコンサート」 (略称:マリパク)
まったく意味のわからないネーミングです。
後輩達には申し訳ないのですが、そのときの私はもうテンションが落ちていて、その意味のなさに意見を言う気力もありませんでした。
それに「すぐ変えればいいや」という楽観もあったのです。
ところがこのネーミングで、この「合同コンサート」はこのあと十年余り続いたようです(笑)
※赤ちゃんの名付けは慎重に! 十年どころか、一生ついてまわるものですよ!!
さて、ひとまず「合同コンサート」を開催できはしましたが、私はやはり「高校のクラブ活動」がほんとうの意味で自分達の力だけで結集し、発展していくためには「冠公演」すなわちスポンサーつきの公演ではやはりダメだろうと思いました。
「スポンサーなし、入場料なし、ゲスト(OBも)なし」でなんとかやれないものか・・・・。そうして現役生だけで活動を続けていればひょっとしたらいつか学校からもこのイベントのための予算がつくかも知れないと・・・。
私は3年生になろうとしていましたが、どうしてももう1回、今度は先日の会議で決めたコンセプトにできるだけ添ったコンサートをしようと思っていました。本当に私は「懲りないヤツなんです」・・・・(^_^;)
でもお金がありません・・・・(涙)
その頃弾いていたギター(FG150ではない)を売って資金を作ろうとも思いましたが、誰も買ってくれそうにありませんでした(笑)
思いあぐねた私は、私たち勝高生のターミナルである「あべの橋」のアポロビルに行きました。
そこに三木楽器があることを知っていたからです。
つまり、例によってアポなし、企画書なしで私は三木楽器のスタッフにダメ元でお願いしに行ったのです。
「今度、高校生ばっかりでコンサートをしたいんです。1回はこの間やりましたが・・・ヘヘヘ」
「ほぉ」
「お金がないのであそこにある天王寺野外音楽堂で・・・」
「なるほど・・・」
「で・・・・大量のPA機材と音響スタッフが必要です・・・・よね?」
「ああ~それは要りますね~」
「機材を提供してください! それも、お金がないのでタダで。さらに三木楽器の宣伝もなしで・・・あっはっはっはっ(汗)」
「わかりました。やりましょう」
Once upon a time in ABENO です。
古き良きフォークの時代でしたねぇ!!!
(良い子の皆さんは危険ですから決してマネをしないでください。おそらくあの時は三木楽器さんに何かの考えがあったのか、あのスタッフさんが何か勘違いしていたのだと思います)
拍子抜けするような会話で、ひとまずPA機材と音響スタッフは確保できました。
もちろん私はこのあと、ちゃんと手書きの企画書を三木楽器さんに提出しました。
そして、各校の代表あてにまた連絡です。今回は純粋に私が主催するコンサートです。
コンサートの時間もたっぷりとれるでしょう。
だから今度は「できるだけ多くの後輩達」を出演させようと思っていました。
(つづく)